与謝野晶子の言葉
今年も梅雨入りし、毎日ジメジメとした天気が続いていますね。
大阪では、新型コロナウイルスも少し落ち着いたので、昨日、家族で久しぶりにお出掛けをしました。
行き先は、堺市にある【さかい利晶の杜】。
ここは、堺市にゆかりのある千利休と与謝野晶子の記念館があり、なかなか見応えのある施設になっています。
長女が、与謝野晶子の伝記を読んでいたので、実際、与謝野晶子の歴史、どんな作品を残したのか、どういった一生だったのか、改めて振り返る佳い機会となりました。
その中で、印象に残った与謝野晶子の言葉を見つけました。じわっと心身に染み込むような言葉です。
『最上の生き方は、学問と芸術を理解し観賞して、豊かな思想と感情に生きるという点にある。』
われわれの生活を物質生活と精神生活とに分けて考えますと、物質生活ではともかくも現代文化の生んだ、かなり程度の高い物を利用していながら、精神生活ではその内の程度の低い常識的なものを雑誌から受け取って済ませておくということになります。
人と生まれて最上の生き方は、学問と芸術を理解し観賞して、豊かな思想と感情に生きるという点にあるのでございまして、皆が皆、学者になったり芸術家になったりする必要もなく、なれるものでもございませんけれど、最も程度の高い学問と芸術に親しみ、それを味わう所の生活を致さないと、精神生活の最も高い所に心を遊ばさないで一生を送るという、貧弱な生活に終らねばなりません。
本質的なものは、きっと変わらないものなのでしょう。
物質生活の豊かさの恩恵は受けていても、精神生活そのものは向上しません。
やはり古典や芸術、歌や哲学に触れ、自分で考がえ味わい深いものにしていくことが、精神生活の向上になるのだと思います。
これからどのような物質生活、不条理な出来事が起きる時代がきても、豊かな思想と感情に生きていきたいものです。
自分の主体性はどうか。
師匠から、下村湖人先生の『青年の思索のために』を読み返してみなさいと連絡がありました。
その中に、今の社会に通ずる素晴らしい文章を見つけました。
心窓去来の章にある
“自分の自主性はどうか”という短い文章です。
「野菜類がこんなに値下がりでは肥料代にも足りない。来年はもう主食一本槍だ。」と一人のわかい農民がいった。
「みんなが野菜を作らないとすりゃあ、おらぁ、その裏を行ってうんと作ってみるかな。」と、もうひとりのわかい農民がにやりと笑った。
するとそれをきいていた老農がよって来て、たしなめるようにいった。
「値上りや値下りなどに頓着しないで、あたりまえに作るものを作っていりゃあいいんじゃよ。それが百姓の本筋じゃでな。」
この三人の言葉のうち、いずれの言葉に共感を覚えるのかを考えて見ることは殆ど無用に属する。
われわれにとって大事なことは、自分自身がその立場にあった場合、果していずれの言葉を発する人間であるかを、よくよく反省して見ることでなければならない。
これは本当に気づかされます。私の人生にも反省すべき点がどんどん降ってくるような衝撃がありました。
世の中でいうと、SNSなどに散見する、承認を得ることにむきになった文章ではなく、自分がその時々の立場、状況で、本当はどんな言葉を発し、行動していく人間であるのか。
その自分の主体性こそに、真剣に向き合い、省みることこそ、真理に近い生き方なのでしょう。
毎日めまぐるしく変化する中で、今がよければいい!といった、手段が目的にならないようにするため、こういった先生方から学ぶことは本当に必要だと、改めて思いました。
大衆社会と共生と
今、私はスペインの哲学者、オルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆 』(1930年著)を読んでいます。
これはなかなか気力のいる内容ですが、NHKのテレビ番組『100分de名著』で紹介されていましたので、少しは理解出来たかな~・・・という感じです。
18世紀~19世紀のヨーロッパでは、各地で革命が起こり、それまでそれぞれの土地で農家を営んでいた人々が、都市に集中しました。そして、『大衆社会』が出来上がりました。
この大衆の定義をオルテガは、こうまとめました。
・大量にいる人たち(みんなと一緒であることに安心感があり、みんなと違う自分には不安を感じる)。
・根無し草になった人たち(元々あった生活基盤、文化、伝統の中にいた人たちが、都市という全く違う世界へ出て何か一緒にやっていく状態)。
・個性を失い、何者でもない群衆化した人たち。
ある意味、視覚的で量的なもので判断していくために、多くの人が賛同していくことが【正しい】とし、違う少数派は【間違い】であり、排除しようとする力が働きます。
多くの大衆社会は民主主義を生んだのですが、この、民主主義というのは、例えば投票して、51対49で多数を得た方の案が採択されますが、多数を制したからといって、その案が必ずしも『正しい』 ものだというのは、また違うレベルですね。
しかし、多数派が正しく、少数派が排除されていく社会が勢いを増しました。それが、ファシズムやスターリニズムを生み出したのですね。
オルテガは、この多数派の熱狂を『超民主主義』と呼んでいます。超民主主義で起こりやすいことは、これこそが正義だ!という熱狂により、その中から独裁者を生むことです。
このような大衆社会において、オルテガは重要な声をあげています。
それは、『敵と共生する、反対者とともに統治する』ということです。
どれほど巨大な政治組織を基盤にしていようと、自分を支持する人間だけしか代表しない人間は独裁者ですね。
反対意見、様々な意見の方々がいて、その全てを共生させていく力こそが、本来の公人であるものの姿なんでしょう。
そう考えると、今の世の中も、あちらこちらで知らず知らず【大衆化】してしまっているようにおもいます。
世の中を出来るだけ俯瞰してみる、自分と違う意見の人を遠ざけるのではなく、共にこの時代を生きるものとして、お互いの役割を尊重する、良いところに目を向ける。
そのような共生が必要だと、考えされられました。
とても気力のいる生き方ですが、真理に少しでも近づく生き方をしていきたいなぁと思います。
不要不急こそ人生
不要不急という言葉を毎日聞くようになって約2ヶ月。
考えてみると、この『不要不急』こそが、人生であり、生きがいそのものだと気づかされます。
不要不急以外とは、食と医療。
これは必ず必要なものです。
しかし、毎日生きていくためだけの食事ができたとしても、なかなか辛いものがあります。
外で遊ぶ、旅行をする、外食を楽しむ、人と人が際に会ってコミュニケーションをとる、図書館で本を読む・・・・
すなわち、不要不急を楽しむことが人生そのものなんでしょう。
不要不急を自由に楽しめるための努力が今なんですね。
医療従事者や、毎日リスクがありながら働かれている方々に比べれば、贅沢にさせてもらっている状況を有り難く思い、また、不要不急が少しずつできる世の中を願って、今日も出来ることを精一杯やって参ります。
トルストイの言葉
ロシアが生んだ文豪、トルストイの作品を読んでいます。150年以上も前に書かれた物語には、人生の教訓がちりばめられていて、本当に素晴らしいなぁと思います。
『すべての不幸は、不足ではなく過剰から生じるのだ・・・』
これは逆説的ですが、真実をとらえています。世の中にはこれでもか!という位の贅沢品がありますが、いずれ日常品に変わり、それがまた義務になってしまう。
この数十年もの間に、人間は冷蔵庫、洗濯機、テレビにエアコン、コンピューターにファックス、携帯電話、SNS・・・と、便利で、これさえあれば時間を節約して生活にゆとりをもたらしてくれるはずのものを、沢山作ってきました。
しかしながら、それらを買いそろえても、時間にゆとりが出来るどころか、毎日を追われるようにせかせかと暮らしています。
30年も前に携帯電話はほとんど普及していませんでした。現在のように、LINEで既読を付ければその日には返信しなければというスピードと義務感に追われるようになったとも言えるのです。
過剰に便利であることは、佳い点と悪い点が絶対に生じます。
『人間の幸福を妨げるのは、個人的な幸福を求める存在同士の闘争』
これもやはり、自由であるが故に、自分さえ良ければ、それでいいといった考え、法にさえ触れてなければいいという不感的価値観を生む人間の心理を突いています。
『人の罪は目の前だから見えるが、自分の罪は背中だから見えねえのだ。』
自分が正しいと思う場面であっても、自分の落ち度はなかなか見えません。認めらるないものです。
そんな時に、自分の非をちゃんと見る力をもった人って、幸せだなぁと思います。
今生きている命に感謝し、他人に感謝し、文明に感謝する。あらゆるものに感謝できる生き方こそが、本当の強かで、豊かな人間なのでしょう。
ものをどう使うか。
ものの観方を味方にどうするか。
古典の文豪は、今に問いを残してくれたように思います。
山椒魚戦争
カレル・チャペックの【R・U・R(ロボット)】に続き、【山椒魚戦争】を読みました。
ロボットが1920年、山椒魚戦争が1936年の作品ですから、ヨーロッパは第一次世界大戦を経験、そして第二次世界大戦前という激動の中にありました。
R・U・Rでは、科学技術の発展により作り出したロボットが、人間の代わりに労働や家事など何でもしてくれる存在になり、人間は堕落していくのです。
次第にロボットたちは、堕落した人間に変わって世界を征服していくという内容です。
山椒魚戦争では、これまで知られていなかった新種の山椒魚が発見されます。その山椒魚は、どうやら教育すれば言葉を覚える事ができ、人間に従い、働くことまで出来るのです。
各国が利益のために争って、山椒魚を大量に生産しはじめます。やがて人間の10倍の数まで増えた山椒魚たちは、住む場所を求め、陸地を次々に海に変え、人間を攻撃し始めるのです。
大戦争の渦中を生きた作家、カレル・チャペックは、人間はその発展する途上でみずから創り出したものによって滅びるのではないか?という危機感とテーマを常に持っていたといいます。
確かに科学技術は、人間を幸にも不幸にも出来る産物です。
核兵器や公害、大気汚染、平和利用とした原発、そしてウイルス・・・。
ロボットや山椒魚に比喩した物語は、リスクコントロールを間違えた人類を破滅させていきました。
現実社会でも、誤った方向へ向かわぬよう努めていかなければなりません。
1939年4月30日、ニューヨーク万国博覧会の開会式で、アルベルト・アインシュタインは短いスピーチでこう残しています。
『科学がその責務を偽りなく全うすれば、その成果は表面的のみならず内的な意味を持ち、芸術のように、人々の意識に深く入っていくだろう。』
どうか、『偽りない』科学のコントロールを成してもらいたいと願います。
飛ぶ教室
エーリヒ・ケストナーの【飛ぶ教室】を読みました。なかなかインパクトのあるタイトルです。
ドイツのキルヒベルクにあるヨハン・ジギスムント高等中学(ギムナジウム)の寄宿舎を舞台として、出身階級や性格の異なる寄宿生5人を軸に展開される、彼らにとっては短くも長い四日間の物語です。(クリスマスの頃のお話です)
小学校高学年~中学生ぐらいの男の子たちが繰り広げる友情、悩み、葛藤、そして先生や大人たちから受ける様々な教えに心が動いたり、そんなことが描かれていて(自分のあの頃なんかも思い出し)、とても懐かしい気持ちになりました。
多くの人にとって、この少年から大人になる頃の短い時間は、いつまでも強く残っているものでしょう。
この物語の時代は1930年初頭。ドイツは第一次世界大戦の敗戦により、非常に貧しい時代であり、またナチス党がちょうど政権を取った頃の時代でした。
物語に出てくる男の子たちの年齢からすると、きっと第二次世界大戦には戦争に駆り出されたことでしょう。迫害を受けたものもいたかもしれません。
それを考えると、不条理な世の中に辛くなるのですが、なぜか登場する子供たちは、強く生きる希望を与えてくれるのです。
この物語に、作者のケストナーがナチス下において強烈なメッセージを残してくれています。それは、先生が生徒たちにこう語るシーンです。
『平和を乱すことがなされたら、それをした者だけでなく、止めなかった者にも責任はある』
『世界の歴史には、かしこくない人人びとが勇気を持ち、かしこい人びとが臆病だった時代がいくらでもあった。これは正しいことではなかった。』
まるで数年後の大戦を予言するかのようです。
実はこの【飛ぶ教室】は、ナチス下では危険思想本としてすぐに焚書処分。ケストナーの本はほとんど図書館の棚から姿を消したそうです。
やはり、自由とはこういった形で奪われるのでしょう。
かしこくなるとは、普遍的な正義の感覚を失わぬこと。勇気をもつことは、声にすること。そしてなにより、他人の立場になって、優しくなること。
そんな大切なことを教えてくれる本当に佳い本でした。
晴耕雨読ならぬ晴読雨読
自宅待機、テレワークになり約1ヶ月弱、午前中は必要な仕事を行い、午後からは晴耕雨読ならぬ『晴読雨読』状態です。
映画を観たり、本を読んだり、散歩に出たり、物思いに耽ってみたり・・・
隠居生活?のようになっています。
早寝早起きで極めて健康的ではあるのですが、仕事が思うように進まない、先行きが不透明といった理由で、どこか満たされない・・・というところが少し悩みでもありました。
イギリスでペストが大流行した1665年、2年間もの休学を強いられたニュートンが実家に戻り、そのタイミングで引力に気づいたそうです。ニュートンはこの期間を【創造的休暇】と名付けたそうです。
さて、自分は自分の出来る範囲で、創造的休暇になっているのか?と思いながら、ふと、『老子』をパラパラめくってみました。
【救い】はやってきました。
自然の道理、TAOをモットーとする老子の教えは、肩の力が抜け、無意味の意味するところを丁寧に教えてくれていました。
孔子が父なる教えであるなら、老子は母なる教えとでも言えるのではないでしょうか。
ことさらな行為をせず、
平穏であることを目的とし、
味のないものを味わう。
小さなものを大きなものと捉え、
少ないものを多いものとして扱う。
恨みには徳で返す。と。
スペシャルなイベント事や、なにかを成し遂げる充実した時間も大切ですが、全ては小事を丁寧に紡ぐことからはじまる。
【米ひと粒を味わう生き方、勇気】
味のない味を味わう。
それこそが自然体で味のある人生
なのかもしれませんね。
トゥルーマン・ショー
1998年の映画『トゥルーマン・ショー』を観ました。
あらすじは以下。
「トゥルーマン・ショー」という長寿テレビ番組がある。赤ん坊の時にテレビ局に売られたトゥルーマンの人生を盗み撮りして、かれこれ30年近く、ひたすら24時間放映し続けている。
トゥルーマンが暮らす島は、実はハリウッドが巨額を投じて作った巨大な半休形のドーム内であった。
そこに住む人々は皆良い人。彼は家族にも恵まれ、それなりに幸福に暮らしている。
しかし、彼の周りの人々は、みんな俳優やエキストラ。両親や妻、親友にいたるまでも。
それを知らされていないのはトゥルーマンただ一人だった。
この番組は、つくりもののドラマにはないリアリティがあり、皆テレビに釘付けとなっている。
ところが、当のトゥルーマンはふとしたことから自分の人生はニセモノではないかと疑い始める。
これまで何の疑いもなかった現実が、実は本物ではないのではないか。この問いから、彼の大きな冒険が始まる。
映画としてストーリーの興味深さはもちろんなのですが、これは2,000年以上前にプラトンによる著書【国家】に登場する【洞窟の比喩】に元ネタがあったのです。
洞窟の奥に閉じ込められている人々。人々は、奥の壁しか見られない。その後ろには火が燃えていて、その光が彼らを背後から照らしている。
火の前ではさまざまな道具や人や動物の像が運ばれてくるが、後ろを観ることが出来ないので、その壁に投影されたものだけが目の前に見える。
彼からにとってはその投影された影が、真実世界になっている。
トゥルーマン・ショーも、洞窟の比喩も、何を教えているのでしょうか。
それは、我々も実はトゥルーマンであり、洞窟の人々であるということだと思います。
我々はこの人生において、見てきたもの、教えられたもの、家族や友人、参加するコミュニティが大きな価値観を作り、それが幸せであり、全てであるかのように思い込んでいます。
つまりそれは、実はそう思わされているに過ぎないかも知れない。洞窟の影だけを見ているのかもしれないのです。
それに気づいたら、やはり多面的なものの見方、本質を見る力が必要になると思います。
様々な古典から叡智を養う、出来るだけ広角に勉強する、良い意味で疑念を持つ。そういう事が大切になるのだと思います。
特に、このコロナウイルスについての報道は、まさに洞窟状態?かもしれません。
私もまだまだ浅い見解かもしれませんが、勇気を持って、今、見ているもののその向こう側を見られるよう、日々チャレンジしようと思います。
佳い映画に感謝🍀
100年前からの警告
チェコスロバキアの作家、カレル・チャペックの『ロボット』を読みました。
今からちょうど100年前の1920年に出版され、原作名は【R・U・R(エル・ウー・エル)ーロッスムのユニバーサルロボット】です。
この物語(戯曲)に、世界ではじめて登場した名前が、タイトルでもある『ロボット』です。
今では誰もが知るこの名前は、実はチャペックとお兄さんが作り出したものだとか。
チェコ語にあるロボタという『賦役』を意味する造語のようです。
この物語の内容は、極めてバーチャルである反面、最もリアリティのある、ぞっとするお話なのですが、それはきっと近未来、そして現代においてもある意味警告的な意味合いを持っているからでしょう。
物語では、R・U・R社が人間そっくりなロボットを開発し、安く、大量生産に成功するのです。
社長のハリー・ドミンには、労働から人々を解放したいという理念がありました。
生産されたロボットたちが、変わりに仕事をしてくれるお陰で、人間たちは楽園のような日々を過ごすこととなったのです。
しかし、ロボットは次第に、自分たちの方が人間より有能であることに気付きはじめました。
そうして人間を排除していく。
社長をはじめ、残された僅かな人間たちは、なんと愚かなことをしてきたのかと後悔するのですが、時既に遅し・・・。ロボットが地球を支配する時代が来てしまいます。
そうしてここが面白いのですが、ロボットたちも同じような道を辿っていく・・・。
(聖書に結び付く結末は感動的です)
人間が物心共に豊かになっていくことは非常に良いことなのですが、効率と利便性、生産的であることだけを追い求めることによって、危険と恐怖を伴う点を、とても分かりやすく教えてくれているように思います。
100年前の、チャペックからの警告書のようにも受けとれます。
これから未来に向かって、AIとの共演によって、未だかつてない体験と、人間の可能性を超越するような社会が出来上がっていくでしょう。
その事が、コインの表裏であり、両面を考え、人間らしい使い道を常に模索しなければならないと思います。
非常に読む価値のある本でした!