心配と心配り
私の大好きな喜劇王、チャールズ・チャップリンは、沢山の名言を残して来ましたが、なかでもこの言葉は、私のさまざまな場面を支えてくれる言葉になっています。
『人生は恐れなければ、とても素晴らしいものなんだよ。』
私たちは、現状や未来に、さまざまな恐れを持って生きています。
言い換えると、『心配』でしょうか。
心配を辞書で調べてみると、こうあります。
“物事の先行きなどを気にして、心を悩ますこと。きがかり。”
また、同じ字を書いても、最後に『り』をつけると、『心配り』となります。同じ字を書くのに、意味は全く違ったものになります。意味は、
“あれこれと気をつかうこと。心づかい。配慮。”
とあります。もしかすると、ベクトル(矢印)の方向が自分に向いているか、または他人に向いているかの違いでは?と解釈できるのかもしれません。
心配は、自分にベクトルが向いてる。心配りは相手に向いている。
恐れなければ、そう、自分のことばかり心配するのではなく、相手への心配りに変えてしまえば、人生はもっともっと素晴らしいものになるのではないか?と思います。
先行き不透明な時代と言われますが、それはいつも言われてきたことです。
それより、今、ここをしっかり味わって生きていく。この事がほんとうに大切だと思います。
人生の砂時計
先日、42歳の誕生日を無事に迎えることが出来ました。
こうして歳を重ねていくと、お客さまにもよくお話をしますが、人生が砂時計のように見えてくることがあります。
砂時計の上の砂が残された時間、下の砂が過ぎ去った時間。そうすると、どんどん上の砂が減っていくことばかり気になってしまって、歳を重ねることが、ある意味寂しくなったり、また、できることがどんどん少なくなっていくような印象もあります。
しかし大切なことは、下の部分にどんな砂を入れたのか、またこれから入れていくのかだとおもいます。
つまり、どんな生き方をしてきたか、これからしていくのかで、その溜まった砂を見たときに本当に豊かな人生になり、ああ、いい人生やったなぁという、何とも言えない幸福感を感じるのではないでしょうか。
そんなことをお客さまにお伝えしながら、自分自身に言い聞かせております。
残りの砂がどれだけあるかはわかりませんが、毎日を味わいながら、素敵な砂をたくさん溜めていきたいものです。
この溜まった砂は、共に生きた後世の方々に残る砂にもなりますから。
『ライフ・イズ・ビューティフル』
1997年イタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を観た。
たまたま21時前にテレビをつけ、何か良い番組がないかと番組表を確認すると、この映画がふと目に留まった。
時は第二次世界大戦下。ユダヤ人迫害により収容所に連行されたユダヤ系イタリア人親子の物語だ。
と書くと、かなり辛い悲惨な物語といった印象を与えるが、そうではない。ユーモアを存分に備えた笑いがそこに表現されているのだ。
戦争という悲惨な歴史に、不釣り合いなコメディを表現することで、どんな状況においても希望を失わないとする『光』を感じる映画だ。
この映画は、前半と後半で全く違ったものになる。
前半では、主人公であるグイドという青年が、友人と共に叔父さんを頼りに北イタリアの田舎町にやってくるところから始まる。
その町で、将来の妻となるドーラに出会い一目惚れ。奇跡的にも二人は結婚し、子供をもうける。
なんといってもコメディ色が強く、安心して笑えてしまう。
しかし後半は戦争一色に塗り替えられる。強制収容所では、やはり緊張感がある。過酷な労働を強いたげられ、まともな食事も与えられない描写は、やはり観ていて辛い。
しかし、そこでもグイドは共に連行された息子や妻ドーラのために、命懸けのユーモアによって、希望を与え続けていく。
最後のシーンは、何とも言えない心に残るものがある。
映画を見終わった後、実際に強制収容され、奇跡の生還を果たしたオーストリアの精神科医であるヴィクトール・E・フランクルのこの言葉を思い出した。
「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」
どんな状況化であっても、人からどんな目にあわされても、どう振る舞うか、その態度だけは奪われない。なんと崇高な言葉なのであろうか。
コロナ禍にある現在、思うようにいかない瞬間、瞬間を、どのような態度で生きるのかは、自分が決められる。
グイドのように、ユーモアと希望を少しでも与えられるような生き方をよう。この映画からそんなメッセージを受け取った。
映画観賞日誌
2021年2月1日
半藤一利さん
先日、歴史作家である半藤一利さんを特集した番組がNHKで放送されていました。
保阪正康さん、磯田道史さん、宮崎駿さん、司馬遼太郎さんなど、多くの作家たちとの対談に込められるメッセージだけでも貴重なものでした。
『歴史を知るということは、日本を知るということ』
『歴史というのは、文献と文献の間に、何かおかしいものが必ずある。これを調査し、分析し、更に推理を加える。そうしてやっと事実を掘り起こす』
半藤さんは、このような使命と意思の上、近代の日本史探偵の先駆者として、数々の著作を生み出してこられたそうです。
また半藤さんは、大学時代のボート部のご経験から、ご自身の生涯を一字で示せば『漕』と言われました。
艇(ボート)だけじゃなくて、昭和史も漕ぎつづけてきた。
ゴールはなくても飽きずに一生懸命漕いできた。
毎日 毎日濃いでいると、あるとき突然、ポーンとわかることがある。オールがすうーっと軽くなるように。
だから『続ける』ということを決して諦めず、牛のようにうんうん押していくことです。
とても印象に残った言葉でした。
この言葉は、我々の仕事や人生にも通ずるところがあると思います。
私も歴史が好きですが、ほんの少しずつでも、自分のコミュニティの中でお役立ちできるものを学んでいけたらと思います。
期待≠希望
アドラー心理学研究家の第一人者であり、『嫌われる勇気』などの著者、岸見一郎先生の言葉が、混沌としたこのパンデミックの世界から、とてつもない解放感を頂きました。
「期待」が裏切られても
「希望」は失われることはない
まるで、空を覆っていた分厚い雲が一気に消え去って太陽の光を浴びるような気持ちです。
我々は、我々を取りまくさまざまな問題や課題の解決に期待しています。
また、愛する人、家族、職場の仲間、友達などの身近な人々にも、自分に都合のよいなんらかの期待を抱いて生きています。
期待は、こちら側が抱く単なるエゴかもしれません。だから、裏切られた時に、怒りや悲しみが溢れ出てくる。
しかし、希望は失うことはあっても、裏切られることはない。
希望は、その存在、今そのものを愛することだからです。
もちろん、期待を抱くことそれ自体に良いも悪いもないと思います。
しかし、裏切られた(勝手に思ってしまう)時に、期待(依存)していたのではないか?という事を省みなければ、どんどん苦しくなって、追い込まれてしまうかもしれません。
言葉通りに、期待はやめて希望だけに生きる!というのは、なかなか出来る事ではありません。
が、一喜一憂の瞬間瞬間に、期待と希望を少しでも意識できればいいなぁと思います。
知識を、生きる智恵に!
人間の心は○○より優先
理論物理学者である、アルベルト・アインシュタインの言葉に、以下のようなものがあります。
物理学の第一人者のして、これからの世界を見据え、ある意味でアインシュタインの忠告のようなものを感じます。
現在では遺伝子組み替えやクローンの開発など、科学の目まぐるしい発達が目立ちます。
しかし、技術を一歩間違って使う、すなわち人間の心を無視した使われ方をされると、破壊的な運命を辿ってしまうことでしょう。
これは、過去の歴史をみても一目瞭然です。
どのように技術を使うかは、我々個人にも通ずるものがありますね。
コロナ禍において、テクノロジーは急加速しているようですが、どんな時も、人間の道徳心を持つことを重視し、それはどういうものか、どう行動するべきかをしっかり考え、家族や身近な方々とのコミュニティを温めていきたいものです。
至誠
2021年がスタートし、16日が経ちました。
私は例年通り、元旦に今年の目標を作成しました。毎年全て達成している訳ではないですが、なんとか1つでも継続できるよう、学んで参ります。
2021年スローガン 『至誠』
至誠とは、この上なく誠実なこと。まごころ。自分の私利私欲ではなく,常に相手,その場において大切なことは何かを考え、行動できる人になる。
その為に,この至誠を意識し毎目省みながろも人間として成長していけるよう努めていく。
1.年間50冊以の読書。道学と実学を学び行動に結びつける。
2.映画を30作品以上観る。感性を磨き、心の養分とする。
3.毎日、一言でよいので日記を付ける。
4.朝晩、般若心経・不動明王真言・延命十句観音経のお経を挙げる。
5.伝えたい事、考えた事、感じた事など、400〜1000字で文章にまとめる。
6.毎週2回、友の応援メセージを送る。
7.未来の自分"そうぞう"ノートを作成。
8.感動するたびに100円を貯金。
9.ピアノで「やさしさに包まれたなら」「Man and Woman」を弾けるようになる。
10.私の住む町の遺族会の理事を努め、少しでもお役立ちしていく。
11.今年も毎月10回、氏神様へお参りする。
12.コロナが落ちついたら、家族旅行へ。遊・学・癒しをバランスよく入れる。
13.お金は人が喜ぶような価値ある使い方をする。検約に努める。
14.美術館や神社仏閣に足を運び、真善美に触れる。
以上になります。
コロナ禍で多くの人が不安と共に暮らしています。そんなときは自分勝手になりがちですが、今何が大切かの視点を自分だけに向けず、相手の為になることをしていければと思います。
まぁ、自分の力量から考えると高望みしていますが(^^;
それはそれとして、味わって参ります🍀
自分の戦争観はどこからきたのか。
先日、東京大空襲・戦災資料センターの講義にオンラインで参加させて頂きました。
一橋学園の名誉教授でもあり、戦災センター館長の吉田先生のお話は、非常に価値のあるものでした。
また、質疑応答は約1時間という時間を設けて下さり、子供たちの素朴な質問から、大学生や私を含めて大人の質問にも、懇切丁寧に答えて頂き、本当に有意義な時間となりました。
多くの方々の関心は、戦争経験者がいなくなる中、どう継承していくかという問題です。これはまさに日本人の課題でもあり、世界中の方々の課題でもあるでしょうね。
私はやはり、今のうちに、しっかり戦争体験者のお話を聞き、後世(特に各自が家庭で教育すること)に伝えていかなければならないと強く思います。
そんな中、吉田先生のこの言葉はとても印象に残りました。
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人は、個人個人に違った戦争観がある。自分の戦争観はどこから来たのか。どんな影響の元に成り立っているのかをしっかり分析して知ること。そして、他者と議論しあうときには、その戦争観をいったん突き放してみる。また事実をしっかり知ること。
そして、戦争は遠い昔にあったことではなく、今の時代に繋がっているものと捉え、もし自分がその時代に生きていたらどうだったのか、一体なぜその時、そのような判断にいたったのか、疑問を持ち続けること、そして『心と身体』で感じること。これが大事なのではないか。
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自分自身の戦争観はどこから来たのか。
アニメやドラマを通じて知った人、祖父母に直接聞いた人、ネットでしった人、本で知った人・・・様々です。
自分の戦争観で作られたものが『戦争』であるとすると、意見が違う方々とは感情が先行してしまいます。私も大いに反省すべき点です。
今、生きていることは、あの戦争の苦労をされた元にあることは間違いのない事実です。
明日は終戦記念日です。
この時代の日本に生まれてきたことに感謝して、先祖供養をして参ります。
8月6日です。
今年は戦後75年目の節目ですが、新型コロナウイルスの影響もあって、各地の戦争資料館など、来場者が集まらず、苦しい思いをされているそうです。
不思議なことに、国が管理する戦争資料館は皆無に等しい。ほとんどが民間や個人団体等が経営しています。
歴史認識の違いや、政治的な理由で、国はなかなか管理できないのが現状です。
そして、多くの資料館では、維持管理が厳しく、残念ながら閉鎖を余儀なくされています。
戦争体験者がどんどん減っていく中、資料館は貴重な証言の場であります。
我々世代は、あの戦争の事実を学び、出来るだけ後世に伝えていかなければならない、そんな義務があると私は思っています。
今日は8月6日です。
8時15分、黙祷を捧げました。
今、我々が存在することは、あの戦争でご苦労をされた先輩方々が、なんとか受け継いでくれた命。
今日も命を大いに味わい、
人のために使っていきたいものです。