家康の最期
12月10日、私や友人たちで立ち上げた歴史ツアー倶楽部『天下布部』の、11回目の歴史ツアーでした。
今回は千利休を中心に堺の歴史を学んで参りました。
道中、ざっくばらんに会話をしながら、各々のペースで歴史が学べるというのが、このツアーの良さであり魅力であります。
さて、そんな歴史ツアーで立ち寄った堺にある南宗寺というお寺には、なんと徳川家康のお墓があるのです。
徳川家康は、大阪夏の陣で豊臣方に勝利し、天下統一を果たした翌年1616年、鯛の天ぷらにあたって亡くなったとされています。
しかし南宗寺史によると、「家康が大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れ駕籠(かご)で逃げる途中、後藤又兵衛の槍(やり)に突かれた。辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れており、遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」とされているのです。
南宗寺にある家康の墓には、戦災前は東照宮があったと言われており、17世紀ごろに作られた唐門には、徳川家の家紋である葵の紋がしっかり刻まれていました。
また、徳川秀忠、家光の両将軍が相次いで同寺を参拝している記録があり、幕末の家臣だった山岡鉄舟により『家康の墓と認める』という内容の碑文が刻まれています。
さらには昭和42年、水戸藩初代家老、三木仁衛之次の子孫三木啓次郎氏によって家康の立派なお墓が建てられ、その賛同者として、パナソニック創始者である松下幸之助など著名人の名が刻まれています。
これらの内容からすると、単なる伝説とは言いがたいものがあります。
歴史認識は、語られてきた歴史に偏ってしまいがちですが、語られてこなかった歴史の方がはるかに多いはずです。
歴史は記録と記憶、そしてそこには都合という色が塗られているのでしょう。
今回のツアーも、なかなか関心させられる
ものでした。
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