【真心】【貫く】【生きる】【ぎ】
1月3日、我が家で書き初めをしました。
1年のテーマを表す文字を、家族の皆がちゃんと毛筆で書き残すということを、昨年からはじめました。
【真心】は私。
昨年の誠実に続き、偽りのない心で、ただ目の前の人のため、真剣に尽くす。仕事のテーマ色が強いのですが、このテーマを課題として取り組んでいきます。
【貫く】は妻。
おみくじに書かれていた文字が貫くだったので、そのまま引用。何事も中途半端に終わらず、一貫する、貫くという強い気持ちか表れております。
【生きる】は長女。
学校の宿題で、【美しい心】という書き初めが出ていたので、そのような心で生きると、繋げたのでしょう。また、生きるというのは強い生命力がある言葉なので、彼女なりの、強さを感じます。
【ぎ】は次女。
ひらがなをやっと読めるようになったので、きっと思い付いた好きな字だったと思います。ぎは、論語でいうと【義】であり、正義や礼儀を意味します。道義に通じた生き方をしてほしいです。
さて、今年も元旦は墓参りとお節。氏神様へ初詣。2日は妻の実家と初詣。3日は書き初めという、我が家の礼が無事に成し遂げられたことを有り難く思います。
私は、人生は不如意なものだと思っています。思うように成らぬことのほうが、圧倒的に多い。
だから、うまくいくというものに、人はなびかれやすいのだと思います。
成功であれ失敗であれ、そこに一喜一憂するのではなく、何があっても、そこでしっかり意味を問う。意味を自分の頭でちゃんと考える。そのような生き方をしていきたいと思います。
そして、人生はいつ終わるかはわかりません。殆どの人が、何かの途中で人生を終えるのだと思います。
今年も、思うようにいかない人生、それでも愉快で有難い人生を、謳歌して参ります。
大晦日には
大晦日には、年越しそばを食べて、紅白を見て・・・と、やることがありますが、
私はここ数年、大晦日にはゆっくり1年を振り返り、また2019年の目標を掲げることをしています。
そして、もう1つやっていること。
それは、今年最後の日の入りを拝むことです。
元旦の日の入りは、めでたいものとして、たくさんの人に拝まれますが、大晦日に、沈みゆく太陽を拝む人は少ないかもしれません。
1年色んなことがありましたが、とにかく無事に終えられること。そのことに尽きます。
そんな感謝を込めて、日没を拝んでいくと、1年が本当に良かったと心から思えます。
今日は少し曇り空ですが、日没に今ある命に感謝し、拝まして頂きます。
そして、久しぶりにゆっくりした時間。
読書などをして、心に養分を与えたいも思います。
2018年も有難う。
クリスマスイブ
クリスマスイブ。
子供の頃は、365日の中で一番好きな日でした。
自分の誕生日は、自分だけがお祝いしてもらえる特別な日でしたが、クリスマスという日は、皆が特別な日を味わえ、また町中がクリスマスに染まる日であったからです。
そして、なんといっても、サンタさんが真夜中にプレゼントを持ってきてくれる。
このワクワク感は、なんともいえないものがありました。
月日が流れ、いつ頃でしょうか。
サンタクロースの存在を知っていったのは。
あまりショックではなかったと思うので、おそらく、結構な歳まで、サンタクロースの存在を信じていたように思います。
今日、娘たちが本当にワクワクしながら、先ほど寝静まりました。あの頃の自分を見ているようです。
子供たちに受け継がれていく、クリスマスの、そしてサンタさんが来てくれるあのワクワク感。
実はこの受け継がれていく喜びこそが、サンタさんからの最幸のプレゼントのように思います。
さて、サンタクロースとなりましょうか。
メリークリスマス。
なぜピアノを弾くのかな
先日、今年最後になる師匠との勉強会がありました。
ひとつ、『なぜピアノを弾くのか?』という、素敵なエピソードを聞かせて下さいました。
師匠の次男さんがまだ小学校から中学に上がる頃、名古屋までピアノのコンサートを観に行かれました。
次男さんがピアノをやっていた事もあり、名古屋でしかみれないピアニストだったので、一緒に名古屋まで行かれたそうです。
偶然座った席の隣に、85歳ぐらいの品の良いおばあさんが座られ、次男さんに話しかけてこられました。
『ピアノは好きなの?』
『はい。』
と、そんな話の中、師匠は次男さんとそのおばあさんとの会話をじっと聞いていました。すると、おばあさんはこう言われたそうです。
『ピアノは出来るだけ長く続けなさいよ。なぜなら、人生には悲しみが必ずあるからよ。』
そして、
『悲しい出来事が起こったとき、ピアノを弾いてごらんなさい。ピアノの音色が、音楽が悲しみを癒してくれるから。』
続けて、
『悲しみはあなただけじゃなく、大切な人にも悲しいときがくるの。その時、ピアノを弾いてあげなさい』
このように言われたそうです。
名古屋までピアノのコンサートに行き、偶然横に座った方に言われた言葉が、とても凄く印象に残ったそうです。
人はなぜ、ものを買ったり、習い事をしたりするのか。
そのものが欲しいのではなく、それを買うことによって、幸せになることを見出だすから。
これが明確にわかったといいます。
私もピアノをはじめて約3年。
いつかピアノが私を癒してくれるかもしれません。
その日のためにも、
しっかり継続していきたいと思います。
次女、初の発表会にて
本日、次女にとって初めてとなる、幼稚園の発表会が開催されました。
歌に演奏に、そして劇と、短期間の中で本当によく覚えられたなぁと感心しましたし、それを教えられる先生たちの凄さを、改めて感じさせられるものになりました。
我が子に対しては勿論なのですが、不思議なことに、知らない子供たちが歌っていても、合唱を聴くと、心を動かされるものがあります。
それは何故なのか?ということを考えていました。きっと理由は沢山あります。
例えば一生懸命な姿だったり、可愛らしさだっり。勿論、そこは当然あるのですが、一番大切なことがありました。
何か?それは、マニピュレーション(操作やごまかし)が無いという事です。
ようは、感動させてやろうとか、良い風に見せてやろうとか、そういった操作的なものは全くなく、ただ、その一生懸命に覚えたことを、真っ直ぐに披露していること。
これに尽きるのではないか?と思うのです。
そして、その姿を斜めから見たり、裏を読んだりする事なく、真っ直ぐに受け止めている我々親側の人たち。
その真っ直ぐな人格と人格が互いに受け入れあうあの空間こそ、まさに美しい感動が生まれているのだと思います。
まさに、『真心』が現れているのです。
普段から、私はどれだけこの『真心』が込められているか?と考えると、まだまだ恥ずかしいばかりです。
大事なものというのは、子供たちから学ぶことが多分にあるでしょう。
それも、真心で接しないと、感じることは出来ない。
素晴らしい発表会を有難う。
次女に、そして先生方、これまで尽力頂いた皆さまに感謝致します。
第7回いのちのセミナー その②
第7回目のいのちのセミナーの続きとなります。
講師は、福井県霊泉寺の住職であり、青森県恐山菩提寺の院代を務める、南 直哉氏です。
前回、何故生きているのか?それな解がなんとか分かるようになる救いがあると書きました。
それは、出てきた瞬間に、よくぞ出て来てくれましたと受け止めてくれる手があるということ。そしてそれが親の役目であること。
親のその言葉、愛情によって、自分の命や生きていくことの価値をちゃんと実感できていくのです。
しかし、この価値を見いだせず、与えられなかった人は少なくないといいます。
その中の一人、75歳の女性の話がありました。
この方は生涯独身であったので、お金には多少の余裕もあったことから、高級老人ホームに入居していました。
しかし、なかなか周囲の人間と馴染めず、違う老人ホームに移ったそうです。
移ったホームでも同じように仲間外れにされてしまい、悩みを聞いてほしいと、住職の南さんを尋ねて来られたというのです。
住職には、『また違う老人ホームに移ったほうがいいですか?』と、そんな風に聞かれたそうです。
その前にあなたのことを聞かせてほしいと、様々な話を聞き、この方がなぜ仲間外れにされるのか分かりました。
それは、親から受け止められてこなかったという事でした。
遡ること昭和20年半ば、戦後の貧しい暮らしの中で、この方はまだ『つ』のつく歳に、兄弟3人の面倒をみていたといいます。
親は離婚し、母が育てていました。困窮する経済状況から、母親は水商売で生計を立て、毎晩遅くに酔っぱらいながら帰宅してたといいます。
殆ど毎日、酔っぱらって帰宅した母親に、お水を入れてあげていたそうです。
ある日、母親がいつものように泥酔しながら帰宅し、テーブルに座るなり顔を埋めていました。
いつものように、お水を差し出した時です。母親はこのような言葉を発したのです。
『あんた達さえいなければ・・・』
もちろん、他の兄弟は寝ています。
母親も、次の日にはけろっとしていて、そんな言葉を発したことも知りません。その言葉を知っているのは、この世でたった一人、この方だったのです。
『あんた達さえいなければ・・・』
その続きに、何を言おうとしたかはわかりません。ですが、実の母親から出た信じがたいその言葉をずっと受け止めて来られたのです。
いちばん信用できる人が信じられない人生。
いちばん愛情をもらえる人からもらえなかった愛情。
この事が大きなトラウマになり、人を信じることが出来ない人生を生きてこられたのです。
だから、老人ホームでも人との関わりかたが素っ気なかったので、周囲から無視されていったそうです。
住職はこう答えたそうです。
『あなた、もう30年も生きようも思わんでしょ?だったら、あなたが今からするべき事は、老人ホームを移ることじゃない。母親を許してあげることですよ。』と。
誰かを許すということは、実は自分を許すということです。
誰かを許す、その自分を許すということなんです。
人を許せないのは、その人を許す自分が許せないからです。
その住職の言葉はとても胸を打つものがありました。
それから、その方はどうなったかは知らないといいます。しかし、なにか残りの人生に変化があれば佳いなと願います。
私はこのセミナーを通じて、命の価値、存在している価値を、親から日々、子供たちに伝えてあげることの大事さを学びました。
そして人を許すは、自分を許すこと。
肝に命じて、思い通りにはいかない人生も、たまに棚ぼたのある人生も、味わっていこうと思うのです。
第7回いのちのセミナー その①
本日、第7回目のいのちのセミナーに参加いたしました。
今回の講師は、福井県霊泉寺の住職であり、青森県恐山菩提寺の院代を務める、南 直哉氏でありました。
日頃から沢山の人の話を聞き、説法をされているからでしょう、話がとても上手で面白く、まるで落語を聞いているようなリズムが心地よいものでした。
さて、様々感銘を受けましたので、2回に分けてブログに書き残そうと思います。
大きく感動した話のひとつに、東日本大震災のこたがありました。
あの3月11日をさかいに、日本人の生死の意識が大きく変わったのではないかとおっしゃられていました。
その変化とは、『明日は我が身』だという自覚です。
本来は関西に住む人からすると他人事といってもおかしくありません。
でも、我々はあの大地震で起きたことを、映像で見たのです。
そして、我々は元々、震災を体験された方々と同じように似たようなことを知っている。
被災しようとしまいと知っていることがある。
それは、もっともっも意識のより深いところにある事で繋がっている共通の問いがあるのです。それは、
『我々はなぜ生まれてきたかわからない。』ということなのです。
生まれてきた意味など全ては後付け。
事実はただ、お腹の中からぼろっと出てきたことだけ。その時点では、意味も目的も価値もわかりません。
そして、死とはなにか?など、絶対わからない。それは、この世で生きている人の中に、今だかつて死を経験した人がいないのだから
生まれてきた理由もわからない。
死ぬということもわからない。
最初と最後がわからないのに、真ん中(生きていること)なんて解るわけがない。
確かにその通りです。
ただ、それがなんとかなる。分かるようになる救いがあるといいます。
実は、出てきた瞬間に、よくぞ出て来てくれましたと受け止めてくれる手があるということです。
これが親であり、役目なのです。
しらないと言われたら、即アウト。
受け止めてくれるというのは大ラッキーであるのです。これを赤ん坊は本能的にわかってるんじゃないか?と持論を展開しておりました。
あなたはそこに、そうやって居てくれるだけで嬉しいんだって、誰かが言わなければわかりません。
自分の命の価値や意味は、誰かを通じてしか出来ない。わからない。
自分の名前は自分で決めない。
そう、全部他人から自分は作られるのです。人はお仕着せからはじまる。
お仕着せた人が、あなたはそこに居てくれるだけで私は嬉しいと言ってもらえない限りは、金輪際、自分の命の尊さありがたさ、意味や価値はわかりません。
それを言う人が親。それを言えなければ親になっちゃだめだと言われていました。
命一杯、その存在に感謝することで、感謝される側が自分の価値に気づいていく。
それが魂となる。魂は、大切な人が育ててくれるものだということを知り、また改めて、自分にない考えや思いに注ぎ込まれる養分となったように思います。
親の立場としては、まず子供たちの存在に、心から有難うと発していくことを、着手点としたいと思います。
曽爾高原
先週3連休の中日に、家族で奈良県にある曽爾高原へ行って参りました。
まだ薄暗い夜明けに出発。
山道の道中では、外気の気温がなんと1℃を表示し、降りてみると辺りは霜が降り、真っ白になっていました。
しーんとした山道脇。この辺りは秋ではなく一足先に冬が到来していたのです。
さて、午前9時ごろ、曽爾高原の少し手前、ファームガーデンという複合施設に到着。そこから約40分程山道を歩き(4歳の次女は本当によく頑張りました)、ようやく曽爾高原に到着しました。
曽爾高原入り口の細い坂道を上がると、そこには、太陽の光を浴びて白く光輝くすすきの大群が、高低差のある壮大な草原を覆い尽くしていました。
この景色は想像を絶する素晴らしさであります。
高原の中央には池と、平らな草原がありますが、そこから360度見えるもの全てに、拝みたくなるような美しさを覚えました。
『きっと、あの世ってこんなとこなんだろうな』というインスピレーションが浮かんだぐらいです。
もし、此処へ来る道中に車の事故で死んでいても、きっと此処へ来ていると思う。
そんな話を家族ですることすら、不自然ではない場所でありました。
また、高原を登って行き、上から眺める曽爾高原もまた、格別な美しさがありました。
ファームガーデンに戻って食事と取り、温泉でゆっくり疲れを癒しました。
帰りの車では、子供たちは本当に気持ち良さそうに眠っていました。
家族でゆっくり、美しい景色を味わい心身リフレッシュさせてもらった1日でした。
改めて、自分の中にある誠実な心、直向きな心、天真爛漫な心を大切にしていこうと思います。
感動の1日に感謝します。
ピアノの発表会と女性向けセミナー
今日は、私が習っているピアノスクールの年一度行われるピアノ発表会でした。
場所はリッツ・カールトン大阪のTHE・bar。木目調の重厚感のある壁にアンティーク調の高級感溢れるテーブルや家具。大人でシックな雰囲気が、何とも言えない緊張を誘い出します。
なかなかこのような場所でピアノを弾くことも出来ないので、人生の佳い思い出となりました。
ピアノスクールに通いはじめて早いもので3年が経とうとしております。
同じスクールに通う子供たちに紛れて、おっちゃんが一人発表会で窮屈な演奏をする。子供たちにはどのように映っているのかはわかりませんが、この歳になっても、挑戦していくという難しさと楽しさを、改めて感じる事ができました。
また、子供たちの著しい成長には感動しました。昨年とは全くレベルが違っています。子供の可能性とは凄いものですね。
発表会を終えてすぐに、神戸のお客さまが経営するサロンで、女性向けのセミナーをさせていただきました。
集まられた方々は、皆50代~60代の女性。そのパワー*1には、圧倒されるとともに、女性の生きる強さのようなものを感じました。
内容は、3つの健康について。
それは、心身の健康・つながり(人間関係)の健康、そしてお金の健康です。
とくに、お金の健康については、大盛り上がりでした。
改めて、人にはそれぞれ一人一人の大切にしてきた物語があるということ、私も含めて、かけがえのない人生を、大切にしたいと、これは祈りのようなものがあるのだと感じます。
人の相談にのるということは、自分の価値観や先入観を持たないこと。
この事を肝に命じていかなければ、佳い相談はのれないでしょう。
神経を使う場面が多かった1日でしたが、夜はお酒でも味わおうと思います。
*1:笑
克 明 徳
段々秋の深まりを感じるようになりました。
一昨日は仕事で岡山だったので、道中【閑谷学校】によってきました。
閑谷学校とは、江戸時代前期に岡山藩主池田光政によって開かれた、日本最古の庶民のための学校です。
講堂は国宝に指定され見応えがありました。ここで江戸時代の子供たちが、学問をしていたのかと思うと、清々しい気持ちになります。
講堂の中に、一際大きな額がかけられていたのですが、そこには、【克明徳】とたいそう立派な書がかかれていました。
岡山藩五代目藩主である、池田治政が書かれたものだそうです。
三字額の【克】は、力を尽くして事を成し遂げる、【明】は、物を正しく見る力、【徳】は、善や正義をわきまえる高潔な品性と解釈されています。
まさに、人物を創ることを大切にしていたことが伺えます。
また、ここは紅葉の観光地でもあり、木々の紅葉がとても美しいものでした。
紅葉とは、人で言うと老人になったことをさすと思います。でも葉はそれが美しく見える。
しかしながら多くの人は、年老いていくことを悲劇し、目を背けたいと思います。
紅葉のように、老いていくことで深まる人間としての美しさのようなものが感じられる、そんな歳の重ね方をしたいものだなぁと紅葉を見ながら感じました。
岡山出張は、佳い時間となりました。