dantelのブログ

日々の心境、思想、学び、気づき等を書き留めています。いつか、後世への遺物となることを願っています。

親族の繋がり

私のお客さまに、親族の繋がりをとても大切に
されている方がいらっしゃいます。

そのお客さまは、ご主人が68歳、奥さまが63歳で
お二人とも定年し、いわゆるセカンドライフ
楽しんでいらっしゃいます。

3人のお子さまにも恵まれ、皆結婚して
とても近くに住んでいらっしゃいます。

お孫さんは6人。学校から帰ってくると皆真っ先に
お客さまであるおばあちゃんの家にいき、宿題を
したり、いとこ同士遊んだりしているそうです。

そして、夕飯は3家族とお客さま夫婦がテーブルを
囲み、みんなでにぎやかに食事を楽しむのです。

核家族化し、兄弟姉妹といえどあまり交流も
なくなりつつある今の時代に、親族の繋がりを
とても大切にされていることに感心致しました。

大切にする理由を聞くと、
どうやらお客さまの子供の頃にありました。

特に奥さまは、姉妹がいなく
一人っ子だったそうです。

それでも寂しくはなかったといいます。
それは、ずっといとこ達と一緒に過ごしてきた
ことにあります。

時代や田舎だったからという理由もある
そうですが、毎日のようにいとこ達と遊び、
食事をし、助け合い、たくさんの時間を
共に生きあったのです。

そして、今もいとこ同士で色んなところに出かけ、
楽しんでいるようです。

ご両親は他界されたそうですが、今でもいとこ
同士仲良くされている姿をとても嬉しく
思われている事でしょう。

繋がりを大切にされていること。
それは、ご自身が繋がりや生きあう事の大切さを
身をもって体験したからこそにありました。

3人のお子さんの家族が、いつまでも仲良く、
時に助け合いながら暮らしていく事。
それが願いだと言われました。

とても温かい愛情に触れる事ができ、私も幸せを
お裾分け頂いた気持ちになりました。

生きあう姿とは何か。
自分自身において考えてみようと思います。

戦没者追悼式

私の住む市で行われた、『戦没者追悼式』に
参加させて頂きました。

市の広報を見て知ったのがきっかけです。

市長をはじめ市議会委員、政治家、そして遺族の
方々、私のような一般の市民の方々が集まり、
厳かに執り行われました。

大阪府知事の席はありましたが、ご本人が
いらっしゃらないのは残念でした。


さて開会の言葉から始まり、霊名簿安置、
国家斉唱、黙祷と形式的に続き、市長や
衆議院議員が追悼の言葉を読み上げました。

約1時間ほどの式ではありましたが、
思うことは多様にございます。

まず、戦没者追悼之標、そして戦没者のご遺族の
方々を前にして、非常に身が引きし締まりました。

空気というのでしょうか。あの戦争は終わって
いても、悲しみを背負ってこられた深い歴史を、
わずかでも感じさせて頂いたようにも思います。

また、市長や衆議院議員等が読み上げた
追悼の言葉には、空気の中にふわふわ浮いた
ような軽さを感じました。


確かに追悼式ですから、形式的な文章を読むのは
当然でしょう。しかしながら、誰一人として
自分の言葉で、ご遺族に向かってお話をしようと
した方はいらっしゃいませんでした。

本当に追悼の想いがあり、この町の人を大切に
思う心があるのならば、ご遺族の方々に少しでも
よいので、自分の言葉を伝えたいと思うのが
自然ではないでしょうか、と私は思うのです。

ある衆議院議員の追悼の文章には、絶対に戦争を
しない国を作っていくという言葉がありました。

改憲するべきという党の議員です。

あなたの言葉が本心であり、その言葉が
必ず党内にも浸透していくよう願います。


追悼式が終わり、退席していく市長、市議会委員、
政治家たちの姿も、残念ながら目を疑うような
行動をとっていたように感じたのは、
私だけでしょうか。

選挙での勝利を称えるかのように議員に寄り、
握手をしながらニヤニヤと笑っているのです。

はっきりと言葉を聞いたわけではありませんので、
それは私の想像に過ぎないのですが、それでも
式場であのニヤニヤした顔で退席していく姿には、
『遺憾』というものでしかありませんでした。

これが政治なのでしょうか。

退席時、献花をお裾分けして頂きました。
また遺族の会の方々からも、
お礼の品を頂きました。

御心遣いにあの遺憾の念は浄化されました。
本当に嬉しく思います。
献花は、自宅で飾らせて頂いています。

私も矛盾だらけの人間ですが、この花のように
少しでも美しい心を育てていければと思います。

そして、自分の想いを少しでも自分の言葉に
変える力と姿を持って生きたいと、
強く願った次第であります。

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雨のUSJ、そして思うこと

昨日は家族でUSJに遊びにいきました。

小雨が降り続く天候でしたが、朝から大勢の若者、
家族連れであふれていました。この人気には
びっくりさせられます。

私は、人混みという環境が年々苦痛になって
いるという事と、遊園地のように、ゲートを
くぐると普段では表さない興奮した態度、
いわゆるテンションが高い状態になった集団の
中で、その状態になれない自分がいなければ
ならない点に疎外感を感じることもあって、
出来ればあまり行きたくない場所です。

ですので、正直気持ちはこの日の天気のようでは
ありましたが、娘たちが楽しむ場を阻害しては
ならないと言えば大袈裟ですが、出来る限り、
その中でも楽しもうと決意致しました。

さて、これだけたくさんの人がいながらも、
子供達が見たかった、そして体験したかった
アトラクションは、あまり待つこともなく、
意外とすいすい回ることが出来ました。

待つのが苦手な私も、これには非常に
心弾むものがありました。

雨は止むこともありませんが、
酷くなることもなく、小雨が降り続くというような
天候だったことも幸いしました。

一つ気づいたのですが、カッパがあれば
これしきの雨だったら通常通りの動きが
出来るものなのですね。

カッパというものが、ものすごく便利で
あることが私の中で証明されました。

子供達がたくさんのアトラクションを経験でき、
充実した時間になったことは本当によかったです。

さてそんなUSJに、私目線で感じる
違和感がありました。

USJは今、ハロウィンの期間であり、
多くの若者が様々なキャラクターに変装する、
いわゆるコスプレをしていました。

友達同士、カップル同士、なかには家族みんなで
一つのキャラクターになって、
楽しんでいるのです。

それはそれで、一つの楽しみとしてよいと思う
のですが、中にはバニーガールや、露出の多い
衣装などを着て楽しんでいる若い女性の
姿もありました。

またそんな女性に、声をかけにいく男性陣も
いたりして、まるでナンパを目的にUSJ
行くなどという、秩序が低下した
テーマパークにもなりかねません。

格好もある程度モラルというものがあり、
規制できるかどうかの判断は自分自身です。

そしてバニーガール衣装や露出の多い衣装を着た
若者がスヌーピーに抱きつきながら写真を撮って
いる風景は、違和感でしかありませんでした。

ましてや子供達も多く遊びにくる場所です。
ハロウィンの衣装にも、場を考え、自ら自制して
楽しんでほしいと思います。

私としては、苦手な場といえども、
無事に家族で丸1日時間を過ごせたことには、
充実感で満たされました。

とまぁ、私の心は矛盾の連続です。

核兵器=死滅、 原子力=生命という神話

1945年8月6日と9日、世界で初めて
原子爆弾という核兵器を投下された、
唯一無二の国、それが我が日本です。

日本は、あの戦争から原子力というものに、
支配されつづけています。


GHQは、戦後原子爆弾投下の事実を
長らく明かしませんでした。

そして、原子爆弾を使用したことにより
戦争は終わり、その後何十万人もの
アメリカ兵や、何百万人もの日本人を
救ったという、原子爆弾を正当化する
神話を作り出しました。

そのことにより、一瞬のうちに何万人もの命を
奪った殺戮兵器は、『人道に対する罪』という
ものを消し去ってしまったどころか、戦争終結
為の正しい手段とされてしまったのです。

戦後アメリカとソ連は冷戦状態に入り、
互いに核兵器を大量生産し始めました。

そして、核実験が繰り返される緊張した状況を
緩和する手段として、1953年、アメリカ大統領
アイゼンハワーが、国連演説で、
Atoms for Peace(原子力平和利用)』
という政策を掲げました。

アイゼンハワーは、国連演説で
このように述べています。

『アメリカは、恐ろしい原子力のジレンマを
解消し、この奇跡のような人類の発明を、
人類滅亡のためではなく、人類の生命の為に
捧げる道を、全身全霊を注いで探し出す決意を、
皆さんの前で、ということは世界の前で、
誓うものである。』

この発言には、拡散化する核技術を、
一方で非核兵器保有国には平和利用にのみ
限定され、他方では既存の核保有国の間だけで
保有独占化を図る目的が背後にあとたのです。

そうして敗戦国である日本は、まんまと
原子力平和利用のお得意様となりました。

唯一の被爆国だからこそ、
人類の進歩と平和のためだけに使う国。

そんな言葉に、国は『正義という魔法』
をかけられ、今日まで原子力をなくてはならない
存在として利用してきたのです。

しかし、福島の原発事故により、核燃料の恐ろしさ、安全神話の崩壊を目の当たりにしました。

核兵器=死滅、
原子力=生命

という二律背反は幻想であることを、
本当に自覚しなくてはなりません。

原子力により豊かさを得ることの裏側には、
核による壊滅的な破壊はいつでも
つきまとっているのです。

そのことを真剣に考え、真に未来の人々を救う
ような政治家は残念ながらいないでしょう。

経済成長も大切ですが、行きすぎた物質的豊かさ、
もうけ主義の横行を何処かでたちきる。

そして人徳、明徳のある生き方こせが
素晴らしい人生である日がくることを
大いに願っています。


核のない平和な世の中を!

地元のお祭り

今年も、家族で地元のお祭りに行って参りました。

長く続く秋雨ですが、今日は午後から雨も上がり、
たくさんの地元民が神社に集まっていました。

私の弟は、お祭りの役員をしており、
毎年太鼓台の誘導などで活躍しています。

それを妻も娘たちも、楽しみにしています。

また、祭りに行くと、必ず古くからの
同級生にも出くわします。

お祭りのにぎやかな雰囲気の中で、
少し話をするだけでも、何か活気付くような
気持ちになるのがとてもよいものです。

しかし、出店などは私が子供の頃に比べると、
非常に物価が上がっていますね。

長女がキティーちゃんのお面をほしいとの事で
買いに行くと、なんと1つ800円もするのです。

これには驚きです。

それでもこのお祭りの雰囲気に背中を押され、
悩む間を与えず、買ってしまいます。

お祭りの力なのでしょう。

それでも子供の頃からの、思い入れある地元の
お祭りです。今年もみんなで来れた事を有り難く
思い、残り少なくなった今年を
味わって参りましょう。

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歴史ツアーの打ち合わせ

私のライフワークのひとつに、
歴史ツアーというイベントがあります。

歴史好きな人、歴史を学びたい人、
歴史は知らないけどみんなとなら学べるかなと
いう人、そん様々な人々と年に3回ほど、
各地に訪問し、その地での歴史を学んだり、
郷土のものを味わったりする企画です。

このグループを、織田信長の『天下布武』と、
クラブ活動をもじって、『天下布部』と
名付けています。

昨日は、執行部のメンバーで第11回目の
歴史ツアーの打ち合わせをして参りました。

場所はメンバーの一人であり、小学校からの
同級生が住む摂津富田。

彼の行きつけのおでんの美味しいお店と、
barで料理とお酒を楽しみました。

同級生の彼は、新しい地でも、その町の人たちに
上手に溶け込み、良い縁を結ぶことが本当に
長けています。

彼のお陰で、美味しい料理と素敵なお店、そして
その町の人たちともふれあうことができました。

楽しい時間をありがとう。
次の歴史ツアーも、
良きツアーにしたいものですね!

算命学

今日は妻と次女を連れて、『算命学』による
鑑定に行って参りました。

私のお客さんでもあり、算命学の鑑定士としても
活躍されている方が、ついこの前、神戸に
カルチャーサロンを開かれたのがきっかけで、
夫婦で鑑定頂きました。

そもそも算命学というのは、先生の言葉を
借りると、2500年以上も前、中国の四川省
おいて誕生した、「道教」をルーツに持つ予知学、
宇宙の法則を観察して体系作られた
哲理・哲学です。

生まれた日より、十干・十二支・陰陽五行を
駆使して自分の性格・才能を理解し、自分を取り
巻く人間関係などを考察する学問になります。

夫婦で約2時間をかけ、生まれもった星による
性格、才能、時期による心境の変化などを
丁寧にご教授頂きました。

私は、どうやら『岩石』のような性格を
基礎としているようです。

石のかたまりですから、磨かなくては輝きは
放たれません。

厳しい環境に身を起き、ストレスをかけて、
磨いていけばダイヤモンドのような輝きを放つ
存在になるようです。

しかしながら、いわゆるぬるま湯につかり、
大して努力もせずにいると、岩のような頑固者で
終わってしまうのです。

以前霊能師の方にも冒頭、『あなたの額には、
亀のような硬い甲羅が見える。頑固者でしょ!』
などと言われました。

謙虚さを忘れず、そして厳しい環境を作って
努力することを忘れずにいたいと思います。

また、妻も鑑定により、心のわだかまりや不安も
解決したような様子で、夫婦にとっても家族に
とっても、よい方向に向かう一歩になりました。

当然ながら、この算命学が全てではありません。

しかし、何かしらの迷いがある場合に、
算命学という視点から見るという1つの
選択にはなると思います。

よい体験となりました。
少しは活かしていこうと思います。

瀧本邦慶さん

10月9日は、
私にとって歴史的な1日となりました。

日本海軍兵の、瀧本邦慶さんにお会い
出来たのです。

瀧本さんを知ったのは、私が語り部に関心を
もったつい最近のことです。

インターネットで語り部という検索文字に
ヒットして出てきた記事が、瀧本さんの語り部
関する記事だったのです。

瀧本さんは、真珠湾攻撃ミッドウェー海戦に、
空母飛龍の整備兵として参加しました。

その後、日本軍の南方の重要基地であるトラック島
で想像を絶する過酷な体験をされ、奇跡的にも
帰還された、数少ない貴重な戦争経験を持つ
お方です。

御歳96歳の瀧本さんは、非常に元気で、
エネルギーのあるお方でした。

7月から体調を崩され、3か月ほど療養をされて
いたのですが、そのことを感じさせない姿で
ありました。

私個人のために、約2時間半もの時間を使って
頂き、戦争の体験、戦争の悲惨さや矛盾さ、
無益さ、そして如何に国民大衆の犠牲が大きいか
と云う『真実』を語って下さったのです。

特に、戦争も末期に差し掛かった昭和19年
トラック島での日々の話は壮絶でした。

トラック島に来て1週間で、
アメリカ軍の大空襲にあうのです。

日本軍はこの空襲により、航空機350機、
軍艦・輸送船55隻、戦死者は15,000名という
大損害を受けました。

この攻撃により、トラック島は事実上孤立
しました。もはや食料や武器など物資の輸送も
途絶え、残った兵士たちは飢えに苦しみ、
栄養失調が増えていったといいます。

次第には、骨と皮だけになり、最早人間の姿では
なくなり、餓死者が続出していったそうです。

そんな、戦友がどんどん死んでゆく状況でも、
士官たちは銀飯を食べている。

しかし、それに噛みつこうものなら簡単に
殺されてしまう。

これが同じ国の、而も同じ部隊の、
大本営では発表しない真の姿なのです。

瀧本さんは、今の官僚支配の世の中と同じ、
彼らが大切なのは自分の命であり、自分以外の者の
命は、消耗品であるとおっしゃられていました。

いつも士官からこんな言葉を
吐き捨てられたそうです。

『貴様たちがいくら死んでも、その補充は
すぐにできる。1銭5厘の葉書1枚でいくらでも
徴兵できるんだ!』と。

トラック島では約20,000人の日本軍が
餓死したといいます。

華々しく戦闘で散っていくのではなく、
遙か南洋の小島で人知れず餓死し、
椰子の肥やしになって消えてゆく。

その虚しさと、死ぬ前に今一度祖国の母に会い
たい!そんな思いを鮮明に覚えているといいます。


瀧本さんの体験を通じて、今日の時代の流れは、
当時のような戦争へ突入していく兆しが
随所に見受けられると言います。

戦争の姿は、大切に育てた息子が
親より先に死ぬこと。

常々から政治に強い関心を持ち、流れを知り
自分で正否を判断するよう心がける。

問題が発生したら、一方向だけからみるのでは
なく、多方向から考えてみて、批判点があれば
声をあげる。

そんなメッセージを、今の若者に語り部として、
命ある限り伝えていきたい。

それが生き残ったものの使命であり、私が生きて
いる意味だと、強く伝えて下さいました。

我々は、メディアの前で語る権力者の
うわべだけの言葉に騙されず、自分の頭で
しっかり考え、歴史に学び、人生を本当の意味で
豊かに生きていくこてをしなければならない。

改めてそう感じました。

本当に貴重なお話を頂き、心から感謝致します。

守口市の歴史に触れる

昨日、ひょんな事から、家族で守口市の歴史に
触れるツアーに参加してみました。

ゆかりある守口市ですが、改めて知らないことが
多いにことに驚きました。

守口市駅近くに残る文禄堤は、文禄3年(1594年)
豊臣秀吉毛利輝元小早川隆景吉川広家
淀川の改修工事を命じて建設し、京都の伏見城
大阪城を結ぶ最短距離で作られたそうです。

当時は27㎞の長さだったのですが、
今では700mしか残っていません。


また、1615年、大阪夏の陣で勝利した家康は、
東海道53次に、伏見・淀・枚方そして
守口の4つを増やし、東海道は57次となりました。

守口市は、その最後の宿を担ったのです。

そして明治ごろまでは、文禄堤
淀川の堤防でした。

明治の淀川がどこを通っていたのか、地形や知名、
写真などでガイドさんが丁寧に教えてくださり、
非常に面白かったです。

1868年(慶応4年)には、戊辰戦争の鳥羽伏見の
戦いで負けた幕府軍大阪城に敗走。
それを追うかたちで大坂御親征軍と明治天皇
守口市に到着。明治天皇は難宗寺に
ご仮泊されたのです。

特別に、難宗寺では天皇の御座所(玉座)を見せて
下さいました。これには感激致しました。

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守口市は一夜、日本の帝都となったのですね。

また、江戸川乱歩の自宅や大塩平八郎の書院跡
(マクドナルドになってた)、司馬遼太郎の執筆の
場などもあり、非常に面白かったです。

普段では感じることのない平凡な町並みにも、
多くの歴史があることを改めて感じた、
よい時間でした。

傘の下の君に告ぐ

核廃絶国際キャンペーン『ICAN』が、
2017年のノーベル平和賞に選ばれました。

世界約100ヵ国の国際非政府組織(NGO)からなる、非常に大きな組織です。

2007年に設立したICANは、
日本原水爆被害者団体協会とも連携し、
核兵器廃絶を目指し、核保有国も含めて
各国政府などに訴えかけ、さまざまな
キャンペーンを進めてきたそうです。

こういった活動団体がノーベル平和賞
授与されることは、非常に嬉しいニュースです。

しかしながら、核廃絶の道はまだまだ
険しいものでしょう。

現在もロシアには7000発、アメリカには6800発
(実際にはもっとあるでしょう)、その他7ヵ国の
合計が1200発ほどの核が保有されている
状況です。

唯一の核被爆国でありながら我が日本は、
卑屈にもアメリカの核の傘に守られています。

それゆえに、今年の7月に国連
核兵器禁止条約』を採択した際も、
日本は核保有国とともに賛成はしていません。

本当に残念なことです。

核兵器がこの世から廃絶され、また核を利益主義の
裏のある『平和的利用』も新設しない。

そんな新たな、真の地球規模としての安全利用
としてのエネルギーを、科学者たちは
開発してもらいたいものです。

私は、私ができること
『断片をつなぎあわせる人』として、
微々たる力をこの傘の下で注いで参ります。