dantelのブログ

日々の心境、思想、学び、気づき等を書き留めています。いつか、後世への遺物となることを願っています。

自分の戦争観はどこからきたのか。

先日、東京大空襲・戦災資料センターの講義にオンラインで参加させて頂きました。

一橋学園の名誉教授でもあり、戦災センター館長の吉田先生のお話は、非常に価値のあるものでした。

また、質疑応答は約1時間という時間を設けて下さり、子供たちの素朴な質問から、大学生や私を含めて大人の質問にも、懇切丁寧に答えて頂き、本当に有意義な時間となりました。

多くの方々の関心は、戦争経験者がいなくなる中、どう継承していくかという問題です。これはまさに日本人の課題でもあり、世界中の方々の課題でもあるでしょうね。

私はやはり、今のうちに、しっかり戦争体験者のお話を聞き、後世(特に各自が家庭で教育すること)に伝えていかなければならないと強く思います。

そんな中、吉田先生のこの言葉はとても印象に残りました。

=======

人は、個人個人に違った戦争観がある。自分の戦争観はどこから来たのか。どんな影響の元に成り立っているのかをしっかり分析して知ること。そして、他者と議論しあうときには、その戦争観をいったん突き放してみる。また事実をしっかり知ること。

そして、戦争は遠い昔にあったことではなく、今の時代に繋がっているものと捉え、もし自分がその時代に生きていたらどうだったのか、一体なぜその時、そのような判断にいたったのか、疑問を持ち続けること、そして『心と身体』で感じること。これが大事なのではないか。

=======

自分自身の戦争観はどこから来たのか。

アニメやドラマを通じて知った人、祖父母に直接聞いた人、ネットでしった人、本で知った人・・・様々です。

自分の戦争観で作られたものが『戦争』であるとすると、意見が違う方々とは感情が先行してしまいます。私も大いに反省すべき点です。

今、生きていることは、あの戦争の苦労をされた元にあることは間違いのない事実です。

明日は終戦記念日です。

この時代の日本に生まれてきたことに感謝して、先祖供養をして参ります。

8月6日です。

今年は戦後75年目の節目ですが、新型コロナウイルスの影響もあって、各地の戦争資料館など、来場者が集まらず、苦しい思いをされているそうです。

不思議なことに、国が管理する戦争資料館は皆無に等しい。ほとんどが民間や個人団体等が経営しています。

歴史認識の違いや、政治的な理由で、国はなかなか管理できないのが現状です。

そして、多くの資料館では、維持管理が厳しく、残念ながら閉鎖を余儀なくされています。

戦争体験者がどんどん減っていく中、資料館は貴重な証言の場であります。

我々世代は、あの戦争の事実を学び、出来るだけ後世に伝えていかなければならない、そんな義務があると私は思っています。

今日は8月6日です。
8時15分、黙祷を捧げました。

今、我々が存在することは、あの戦争でご苦労をされた先輩方々が、なんとか受け継いでくれた命。

今日も命を大いに味わい、
人のために使っていきたいものです。

是枝監督の言葉に頷けます。

映画『万引き家族』の是枝裕和監督が、なかなか面白いことを言っています。



僕は意図的に長い文章を書いています。これは冗談で言っていたんだけど、ツイッターを140字以内ではなく、140字以上でないと送信出来なくすればいいんじゃないか(笑)。

短い言葉で『クソ』とか発信しても、そこからは何も生まれない。

文章を長くすれば、もう少し考えて書くんじゃないか。字数って大事なんですよ。



是枝監督は以前から、現代のメディアが陥りがちな『分かりやすさ史上主義 』に警笛を鳴らしていました。

是枝監督の映画も、説明しすぎないことが特徴的ですね。

万引き家族にしても、何か、もやっとしたものが残るのですが、これは家族のあり方とは何か?を考えてみようと、見る側に宿題を残してくれているように思います。


そういえば、日本を代表するジブリ作品も、ほとんどかそのような作品になっていますね。


世の中は複雑で分かりにくい。
分かりやすく語ることは、受けとる側は楽ですが、分かりやすくすることによって、思考しなくなります。

是枝監督は更にこんな言葉を残しています。

『一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えていかなければならない。』

非常に含蓄のある言葉ですね。

複雑な社会です。正義と悪に簡単に分けられるようなものではありません。

その中で考え、試行錯誤することが、味わい深い人生になるのだと思います。

論破、撃沈・・・・そして炎上。

最近、YouTubeSNSに、
『論破、撃沈・・・・』という文字をよく見かけます。

誰かの意見や、誰かがした行動に対して矛盾している点を見つけ出し、そこを突っついては言葉巧みに説得力という力で論破する(したように思わせる)。

議論や対話形式ではなく『ディベート』的なものを、一方的に見せつける手法ですね。

そして、その映像や発言を見て、たくさんの共感を得ることで、相手を撃沈させたかのようなストーリーを構築しています。それを炎上するとしていますね。


ネットニュースの書き込みにも、この手のものがとても多いのですが、これがいきすぎて、誹謗中傷が生まれているのでは?と思ってしまいます。

そもそも、議論や対話もしていないのに、論破するなど簡単に出来るものではありません。そして議論や対話とは、どちらかが勝つか負けるかでもないと思います。

本来議論や対話は、お互い、ある事柄に対して、どうすれば今よりよくできるのかという目的を持った中で、現状を把握し、どういった課題があるのかを見いだすものではないでしょうか。

相手を知ろうともせず、また尊重もせず、わずかな情報の中の、おかしい!という点を拡大して、そこにおびただしいほどの艦砲射撃を行う。そして勝手に撃沈の報告。


もちろん、外国との交渉などでディベートに長けることは必要な能力かもしれません。しかし、普段の日常の中で、会話による突然のテロ行為のような、論破、撃沈、炎上は、どうも気持ちが悪いです。

人を論破できることは、凄い能力!そんな風潮から、人と人はそんな簡単に分かりあえないものだから、お互い今を一生懸命生きているもの同士尊重しあいながら、対話を積み重ねて理解を増やしていく。

そんな時代に向かっていけたらいいなぁと思います。

正しく怖がる、正しく安心する。

安心と安全は違う。

安心は主観的。
同じ状況でも、ある人は安心だと思い、ある人は不安だと思います。

これはその人のもつ価値観や主観がそうさせています。

安全は根拠に基づいたものです。
統計、エビデンスに基づいた根拠が軸になっています。


不安と危険についても同じで、不安はその人の主観、危険とは根拠です。


世の中には、沢山の情報が繁雑していて、何を信じていいのか分からなくなることが、私も沢山ありますが、なんとなく安心していること、逆に不安に思うことは、安全と危険というものに置き換えることが、リスクコントロールになる、すなわち『正しく怖がる』事になるのだとしています。


例えば今回の新型コロナウイルス

まだまだわからない事は沢山ありますが、まず過去の統計をみる。

一番怖いのが、重症化して死にいたることです。

しかし、統計データからみて、今回の致死率はインフルエンザよりも圧倒的に低いことがわかっています。

40歳までではほとんど重症化しない。

また高齢者の方であっても、致死率は低いです。

80歳の10%が重症化しますが、90%の方々は軽症、もしくは無症状であることも出ています。

一人一人の命の重みは、データでは知ることは出来ません。一人一人が大切な命です。

しかし、統計を知り、正しく怖がらなければ、不安に教われ、精神がやられてしまいます。

私はコロナの専門家でも医者でもありませんが、根拠のない安心や不安を、根拠に基づいた安全、危険を取り入れて生きようと思っています。

慶弔積立金なんて

作家・城山三郎さんの著書『無所属の時間で生きる』をパラパラめくっていると、『慶弔積立金なんて』というエッセイに目が止まりました。

大学時代、ロシア語シナ語クラスに所属したことから、同期会に参加された城山さん。いざというときの為、会のメンバーで慶弔積立金を貯めることになりました。

同期会で会うメンバーは気心知れた友人が多いのに、実は友人たちにまつわるさまざまなエピソードについて、あまり語られてこなかったことに気づきます。

そのエピソードの最後に語られている文章がとても美しいんです。



”慶弔積立金もいいが、それよりも、友人にまつわるよい思い出を互いに積み立てておきたい。

人生にあぐらをかき、安定した話などは、どうでもよい。出世した話や金もうけの話は、ときに卑しくひびく。

結果はともかく、在るべき姿を求めて、いかに悩み、いかに深く生きたか。いかにさわやかに、いかに優しく生きたか。

よい思い出のためには、よいつき合いも要るが、よいつき合いとは何なのか・・・。学生時代に戻ったように、問いかけは果てしない。”



青年のようなキラキラした文章を書かれる城山さん。

結果はともかく、在るべき姿を求めて、いかに悩み、いかに深く生きたか。いかにさわやかに、いかに優しく生きたか。

本当に勇気が湧いてきます。

いかに深く生きたか。
今日も存分に味わって参ります。

日常のなかにこそ美しいものがある

私の家のトイレには、日めくりカレンダーがかかっています。

毎日、人生に役立つメッセージが一言書かれていて、それを見ると、なるほど!そうやなぁ!と改めて背筋が伸びる気持ちになります。

そんな日めくりカレンダーから、今日はフィンセント・ファン・ゴッホの言葉を紹介致します。


『美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ。』


とても含蓄のある佳い言葉ですね。

これは人生そのものでもあると思います。何か特別な日やイベント的なことだけが喜びではなく、毎日の日常のなかに喜びや味わいを見出だすこと。それこそが、人間の幸福感に直結するのだと思います。

生きることは、常に今ここにある。
その今ここに五感を集中させ、味わっていく。呼吸を感じたり、心臓の音をゆっくり聞いてみたり、雨を観察したり雲の流れをみたり。

そんなことが、実はかけがえのない美しさであるのでしょうね。

いまここに集中する。


ゴッホの言葉から少し離れますが、そんな瞬間が少しでも増やせていけたなら、集中すべき時に散漫する『心ここにあらず』という自分の癖がなおせるかもしれません。

今日も味わって参ります!

日常のなかにこそ美しいものがある

私の家のトイレには、日めくりカレンダーがかかっています。

毎日、人生に役立つメッセージが一言書かれていて、それを見ると、なるほど!そうやなぁ!と改めて背筋が伸びる気持ちになります。

そんな日めくりカレンダーから、今日はフィンセント・ファン・ゴッホの言葉を紹介致します。


『美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ。』


とても含蓄のある佳い言葉ですね。

これは人生そのものでもあると思います。何か特別な日やイベント的なことだけが喜びではなく、毎日の日常のなかに喜びや味わいを見出だすこと。それこそが、人間の幸福感に直結するのだと思います。

生きることは、常に今ここにある。
その今ここに五感を集中させ、味わっていく。呼吸を感じたり、心臓の音をゆっくり聞いてみたり、雨を観察したり雲の流れをみたり。

そんなことが、実はかけがえのない美しさであるのでしょうね。

いまここに集中する。


ゴッホの言葉から少し離れますが、そんな瞬間が少しでも増やせていけたなら、集中すべき時に散漫する『心ここにあらず』という自分の癖がなおせるかもしれません。

今日も味わって参ります!

372年ぶりの日食

6月21日、本日17時ごろ、日食が見えるそうですね。

なんと夏至の日食は、372年ぶりだそいですよ。

372年前と言えば、1648年。江戸時代となって、戦乱を生きた武士たちの多くがいなくなり、治世的な時代に入った頃。

この辺りから、色んな芸術や江戸文化が栄え始めるんでしょうね。

そして、私が尊敬する陽明学者、中江藤樹先生の亡くなられた年でもあります。

中江藤樹先生に想いを馳せながら、日食を味わいたいと思います。

晴れていれば いいな!

与謝野晶子の言葉

今年も梅雨入りし、毎日ジメジメとした天気が続いていますね。

大阪では、新型コロナウイルスも少し落ち着いたので、昨日、家族で久しぶりにお出掛けをしました。

行き先は、堺市にある【さかい利晶の杜】。

ここは、堺市にゆかりのある千利休与謝野晶子の記念館があり、なかなか見応えのある施設になっています。

長女が、与謝野晶子の伝記を読んでいたので、実際、与謝野晶子の歴史、どんな作品を残したのか、どういった一生だったのか、改めて振り返る佳い機会となりました。

その中で、印象に残った与謝野晶子の言葉を見つけました。じわっと心身に染み込むような言葉です。


『最上の生き方は、学問と芸術を理解し観賞して、豊かな思想と感情に生きるという点にある。』

われわれの生活を物質生活と精神生活とに分けて考えますと、物質生活ではともかくも現代文化の生んだ、かなり程度の高い物を利用していながら、精神生活ではその内の程度の低い常識的なものを雑誌から受け取って済ませておくということになります。

人と生まれて最上の生き方は、学問と芸術を理解し観賞して、豊かな思想と感情に生きるという点にあるのでございまして、皆が皆、学者になったり芸術家になったりする必要もなく、なれるものでもございませんけれど、最も程度の高い学問と芸術に親しみ、それを味わう所の生活を致さないと、精神生活の最も高い所に心を遊ばさないで一生を送るという、貧弱な生活に終らねばなりません。



これは昭和12年の雑誌『夕陽丘』に掲載されたものです。

本質的なものは、きっと変わらないものなのでしょう。

物質生活の豊かさの恩恵は受けていても、精神生活そのものは向上しません。

やはり古典や芸術、歌や哲学に触れ、自分で考がえ味わい深いものにしていくことが、精神生活の向上になるのだと思います。

これからどのような物質生活、不条理な出来事が起きる時代がきても、豊かな思想と感情に生きていきたいものです。