dantelのブログ

日々の心境、思想、学び、気づき等を書き留めています。いつか、後世への遺物となることを願っています。

戦争体験を聞き、改めて感じること。

本日、妻と一緒に『PTA会員と教職員の集い』という勉強会に参加してきました。

男女共同参画社会の実現を目指すという趣旨のもと、43年前から教員組合、PTA、教育委員会が後援し実行されてきたようです。

今回は3つの分科会に別れており、妻は『大人が知っておきたい性のお話』と題した、主に子供に対する性教育についての講義を受け、私は、『私の戦争体験』と題した、大阪大空襲を経験された秋山美代子さんの講演を選択いたしました。

秋山さんは12歳のとき、空襲を経験されますが、太平洋戦争の開戦当時からの記憶を紙芝居にまとめ、パワーポイントで見せてくれながら自身の体験をお話されました。

非常に分かりやすく、また、実際の体験をお話を頂けたので、まるで映像のように鮮明に伝わってきました。そのリアルさには、時代を遡って当時を見てきたような、そんな感情が涌き出る時間となりました。

警戒警報や空襲警報の音(空襲警報は6秒×10回)が耳から離れず、戦後何年経っても、工場などで鳴る12時のサイレンが空襲警報と重なり、何度も耳をふさいだといいます。

秋山さんはサイパン陥落の昭和19年から、奈良へ疎開したそうです。

奈良といってもお寺への疎開で、そこが学校の役割を果たします。

真田山小学校の5・6年生も同じお寺に疎開していたようですが、毎日のように先生の『◯◯君がいない!』という声が響きわたったそうです。

いなくなった子供は皆、お父さんお母さんが恋しくて脱走し、大阪に向かう線路をひたすら歩いているところで見つけられたといいます。

秋山さんも兄弟そろって、夜になると寂しさで泣いていたそうです。

そのお父さんお母さんに会えない寂しさと不安の気持ちがひしひしと伝わってきました。

また、昭和20年に入ると、上空をB29の大編隊が大阪に向かっていく姿を何度も見ることてなり、『仇をとってやる!』という思い半分、『大阪のみんなは大丈夫やろか』と不安半分の複雑な心境だったそうです。

疎開先から一時的に大阪に戻ったのが昭和20年8月13日。

上空を飛ぶB29から大量のビラがまかれました。そのビラには、『明日最後の空襲を行います』と書かれていました。

8月14日午後12時、日本はポツダム宣言を受諾。しかし、13時には日本各地で空襲が行われたのです。

なんとも非道な決断でありましょう。

8月14日、予告通り京橋に大空襲が行われました。秋山さんも空襲にあい、その日家は破壊されてしまいました。

壮絶な体験をされ、次の日に父と玉音放送を聞いたそうです。

バラバラになった家族がみんな揃ったのは、11月のことでした。

みんなが揃った喜びはつかの間。その後直ぐに、弟2人が食べるものがなく、栄養失調で亡くなられたのです。

食べるものがなく、指を2本ずっと吸っていた弟の姿を鮮明に覚えているといいます。

戦争が終わっても、苦しみはしばらく続いたのです。

日本は1946年11月3日に、新たな日本国憲法が公布。翌年5月3日に施行されました。憲法9条により戦後72年間、日本は戦争をしないで今日までくることが出来ました。

日本と同じように、この72年間戦争をしてこなかった国は、日本をあわせて世界でなんとたった6ヵ国しかないと秋山さんはいいます。

ほとんどの国が何らかの戦争や紛争をしているのです。

平和とは何なのでしょうか。戦争がこの世から無くなることはあるのでしょうか。

そうしてまた、日本の憲法改正が日に日に現実に向かっていくことも、非常に懸念すべきことであると思います。

秋山さんにはまた、個人的にお会いさせて頂き、私たち世代に是非語っていただく機会を設けたいと思いました。

平和とはなにか。平和を維持することはどうするべきか。我々世代は大真面目にこの責任と向き合わなければなりません。

本当に貴重なお話でありました。