dantelのブログ

日々の心境、思想、学び、気づき等を書き留めています。いつか、後世への遺物となることを願っています。

人生に何かを期待するのではない。

ヴィクトール・フランクルの夜と霧を
師匠の研究会で学びました。

1942年、ナチスによるユダヤ人への人種差別、強制労働が始まりました。

ユダヤ人たちは、強制収容所に集められ、
その殆どが、過酷な労働、病気、また兵器により殺害されました。

その死の収容所に連行された、精神科医フランクルが、卑劣な環境の中で人は何を思い、どんな行動を起こし、それでもいきる意味を見いだしていく、そんな素晴らしい名著が、『夜と霧』です。

フランクルの言葉には、机上で培われた精神だけではなく、死と常に向き合ってこられた体験によって、物凄い力を感じます。

今回の勉強会で、特に印象に残ったフランクルの言葉が、2つあります。


ひとつは、


『人生に何かを期待するのは間違っている。人生が、あなたに期待しているのだ。』


そしてもうひとつは、


『あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つの自由、それは自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。』

このふたつの言葉は、私に衝撃を与えました。

人生をこうしたい!ああしたい!
何故に思う通りにならない!
と、人生をコントロールするのではなく、

人生側から、何をあなたに期待しているのか?という視点を全く逆にするのです。

また、後者では、
何もかも奪われたとしても、その時の自分の態度は、自由に選べるということです。

フランクルには、絶望を希望に変える力があります。

非常に意味のある、研究会でした。
フランクル、読んでみます。

鏡餅のみかん

お正月にお飾りをする鏡餅ですが、一番上にみかんをのせる意味をご存知でしょうか?

今日、歴史に詳しい先輩に、日本の知恵、伝統や精神を一部教えて頂きました。

みかんは、古くから『だいだい』と言われ、薬としても重宝されたようです。

そんな貴重なだいだいを鏡餅にのせることにより、先祖代々(だいだい)、栄えるように願いが込められているそうです。

また、鏡餅の下には、『ゆずりは』と『うらじろ』という葉を敷いています。

ゆずりはは、若葉が出だすと、前年の葉がそれを譲るように落葉する性質をもっています。

その事から、『良縁を子孫に譲り、家族の繁栄を祈る』という意味が込められているそうです。

また、うらじろは、裏を返しても心は白いという意味をもち、夫婦円満の象徴であると言われました。

鏡餅ひとつにも、これだけの日本の素晴らしい知恵や精神が込められていることを知り、改めて先祖の偉大さを思い知らされました。

来年のお正月には、ちゃんとした鏡餅を飾り、その精神を大切にしようと思います。

先輩に感謝。
ありがとうございます。

ふさわしき人

喜多川 泰さんの最新刊、
『秘密結社 Lady birdと僕の6日間』を読ませて頂きました。

喜多川さんの小説を読むと、眠らせている自分の中のまだ見ぬエネルギーが、沸々と湧き上がるような思いに掻き立てられます。

中でも、この言葉に格別の力を感じました。それは、

【ふさわしい人になろうよ】

という言葉です。

何にふさわしい人かと言いますと、【努力した分だけ、ふさわしい人になる】という意味です。

努力をした分以上でも、以下でもなく、天秤の片一方に努力をした分を置くと、もう片一方は、平行になった天秤に、ふさわしい人物が乗っている。

普通なら、小さな努力で大きな結果を生みたいと願ったり、自分を少しでも大きく見せたいというのが、人間というものに思います。

しかしながら、努力をした分だけふさわしい自分になりたいと思う強さに、私もそのようになりたいと貪欲に意気込んだ次第です。

努力した分だけ、ふさわしい人になるから、いつも顔張って生きていけるのです。

努力と釣り合いのとれた成果を手にするからこそ、その成果を心から楽しむ生き方ができるのです。

ふさわしい人。

また一歩一歩、起きあがりこぶしのように、タフにチャレンジしていこうと思います。

銅像には三者の想いがある

明治維新150周年
カウントダウンシンポジウム in京都
~幕末京都を彩った薩摩の魅力~

非常に長いタイトルのイベントですが、無事に当選し、歴史ツアー仲間であり、会社の先輩と共に参加してきました。

基調講演として、歴史コメンテーターの金谷 俊一郎さん、パネルトークには、幕末維新ミュージアム 副官長の木村 幸比古さん、鹿児島県図書館 館長の原田 泉さんという顔触れが揃いました。

明治という、新たな時代を作って来られた薩摩志士の万死一生の姿や、その舞台となった京都と薩摩の深い繋がりなど、

非常にコアな部分を、沢山お話くださいました。

好きな歴史、尊敬する人物をお話されるパネラーの皆さんの、生き生きとした表情が十分に伝わり、こちらも幸せな気持ちになりました。


金谷さんが、『銅像』について最後におっしゃられていました。


銅像には三者の想いがある』と。


一つは、
その銅像を彫った彫刻家の想い。

そして一つは、
銅像となった人物の想い。

そして最後の一つは、
銅像にしようと願ったそこに住む人々の想いです。


そんな三者の想いが重なって、形となる銅像には、きっと命が宿っていると思います。

祈りがあります。

私はこの先、だいそれたことは出来ないですが、身の丈にあった大きさでもいいので、少しでもフットワークを軽く、人の役に立っていきたいと思いました。

ディーラーの営業マン

車を買い替えることにしました。

初のTOYOTA車にします。

車種自体が、我が家にマッチングしているのは前提ですが、

ディーラーの担当営業マンが、知識、経験、コミュニケーションにおいて、非常に素晴らしい方でしたので、一気に話が進んでいきました。

やっぱり、人!と感じた1日でした。

私も今日の担当営業マンような『喜びを与えられる仕事』をしていこうと、改めて決意しました。

ご縁をありがとう。

冴羽 遼

私が小学生の80年代。
それは、アニメブームも真っ只中の時代でした。

毎日のようにテレビからアニメが放送され、朝も夜も、食いつくように観ていたことを思い出します。

そんなアニメの登場人物たちから、私が人生で初めて憧れを抱いたキャラクターがいます。

それが、シティーハンター
『冴羽 遼』です。

容姿は最高に二枚目なのに、普段のだらしなさ、女好きな性格は三枚目キャラクター。しかしながらスナイパーとしては超一流。

普段はゲスいが(笑)やる時はやる!というあのギャップが段違いにカッコよく映りました。

小学生だった頃、シティーハンターは、毎週日曜日の正午から1時間、放送されていたように記憶しています。

お昼ごはんを食べながら、シティーハンターを観る時間は、憧れを抱きながら、大人になれば冴羽 遼のようなギャップのあるカッコいい男になりたい!と、胸を熱くした時間でした。

今でも時々、影響受けていたなぁと思う時があります。

人生で初めて憧れた人(キャラクター)。

ふとその事を思い出した2月4日でした。

悲劇は喜劇へと。

今日、そばの有名チェーン店の店員と、
口論となってしまいました。

職場のメンバー数人と昼食し、個別会計してもらったのですが、どうやら私の支払った分を会計にいれず、私は支払っていないと判断された様子。

私は支払ったことを説明したが、何か疑ったようなある顔で、不服そうに私にお釣りを渡しました。

良く行くお店でもあり、また気持ちよく来たいと思った私は、なにかこの店員の心のわだかまりと、私の引っ掛かったような心の状態を分かり合おうと、その店員さんに尋ねてみました。

『先程の会計のとき、お支払をちゃんとしたんですが、もしちょっとでも引っ掛かりがあったらいけないと思ったんですが』と私。

すると、間髪いれずに

『お釣りをお渡した時点で、疑ってないということですから。』と速答されました。

それなら、最初に支払っていないと判断されたことから、あの不服そうな態度でお釣りを渡さなくても。こちらとしては疑われてるのかなと思ってしまいます。

その旨を伝えると、

『私はそんな態度をしてません。』というような強気な態度。

その後、お互い口論が続き、私が、

『あなたが疑ってないというのなら、何故に私はこんな気持ちになって話をしているのでしょう?』と問うと、なんと、

『あなたがクレーマーだからでしょ!』と一言。

お店の店員が、客に向かってこの発言はないでしょう。

これで感情的に、いや、それを越えて愕然とした私は、本社へ電話させて頂きました。

勿論、本社、店長の対応はよく、きちっと私の気持ちを汲んで頂き、心の火は消沈しました。

自分の中では、今後のために誤解があるなら解いておこうと思って出た行動でしたが、まさかこんな展開になるとは・・・。

不如意なものですね。


夕方、ふと思いました。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩を です。

【決して怒らず いつも静かに笑っている】

まだまだ『雨ニモマケズ』のような
優しく強く無欲な男は程遠いものだと、
反省致しました。

悲劇は喜劇へ。

この話も、笑い話としてネタにすればいいですね!

38歳

本日、無事に38回目の誕生日を迎えることができました。

たくさんの方々に、おめでとうのメール等頂きました。

本当にありがとうございます。

命がある。

生んでくれた両親、そして御先祖に感謝し、また明日から、雨にも負けず、不如意なことにもめげず、心を込めて、毎日を漸進して参ります。

Time is life

『Time is life』。

これは、私の師匠から教わった数ある教えの中でも、一番腑に落ちた、生きる上での根っ子になった言葉です。

時は命。

そう、時間とは命そのものです。

こんな当たり前のことなのですが、恥ずかしながら私は言葉だけを知り、真解(しんげ)までいかずに過ごしてきました。

この言葉が、身体中に染み渡るような様相へ変化したのは、紛れもなく、両親の他界であります。

母は3年前、父は2年前にこの世を去りました。

母は闘病の末、そして父は突然でした。

それからです。命という感覚が芽生えたのです。

この、命という感覚こそが、師匠が常におっしゃられている『Time is life』なんだと。

命は、いつ、どうなるか、どこまで続くのか、どこで終わるのかはわかりません。

この1秒1秒刻まれる時間、その時間こそが命です。

この感覚があれば、時間を大切に使おうと思えるのです。

それは、損得で何に使うかではありません。

命が輝くかどうかです。

毎日、毎日をどう生きるのか。
この命をどう使うのか。

これこそが、生きるというものだと私は思います。

発熱

熱が出ました。

朝から気だるさと、腹部の張りで
全く空腹間がなく、一日中布団の中で過ごすことになりました。

今日口にしたものは、ポカリスエットウイダーinゼリー、夜に少し雑炊。

布団で寝たり、ボーッとしたり、また寝たり・・・。
流れるように時間が過ぎていきました。

疲れをためてはいけませんね!

さぁ、寝よう。