中江藤樹
私が友人と共に企画し、定期的に開催している【歴史ツアー】。
10月20日に、第16回目の開催として【中江藤樹】を学んで参りました。
中江藤樹という名前、または何を成し遂げた人かを知る人は、意外にも少ないです。
戦前の日本では、二宮金次郎(尊徳)よりも知られる存在だったそうですが。
藤樹は、1608年、今の滋賀県高島市に生まれました。関ヶ原の戦いの8年後、大阪夏の陣の7年前ですから、まだ乱世の世であります。
藤樹は9歳の時、武士であるお祖父さんに連れられ故郷を離れ、米子・大洲と移り変わります。
江戸時代の学問は朱子学が中心でした。藤樹も朱子学、そして論語に大学と、人としての道徳を大いに学びました。
次第にお祖父さん、お祖母さんを亡くし、故郷のお父さんまでも亡くした藤樹は、一人で暮ら母親が気がかりでなりませんでした。
大洲では、郡奉行を司る仕事をしていましたが、母と二人で暮らすため、退職を願い出ました。
ですが、聞き入られません。藤樹は脱藩し、故郷に戻ったのです。
刀を売り、僅なお金で酒を買い、それを売って暮らしていましたが、村の人々が学問を教えてほしいと集まり、いつの間にか藤樹さんの自宅が、学校のようになりました。
この私塾は、日本でもっとも古い私塾であると言われています。
藤樹は喘息を持っていたため、わずか41歳で生涯を終えますが、晩年には王陽明の学問、【陽明学】と出会い、儒学のみでは限界であった思想を、大きく開花させました。
当時、身分制度を肯定した朱子学中心の江戸幕府からすると、人は平等であるという思想を持つ陽明学派は、危険思想と見なされていました。
藤樹没後には、私塾は閉鎖されました。
しかし、藤樹の弟子たちは諦めず、70年もの月日を経て、私塾を再開させました。
それが高島市にある【藤樹書院】です。
大正時代まで、地元の方々の協力のもと、当時のまま実存していましたが、火災により焼失。今は半分の大きさで、再築されています。
この藤樹の思想や陽明学は、時を越え、幕末に大きな影響を与えます。
それが吉田松陰であり、橋本左内であり、藤田東湖であり、西郷隆盛でした。
陽明学の教えの一つに、【知行合一】があります。これは、知っていることと、やっていることが一致しなければならないという教えてあり、実践を伴わない知は、本来の知ではないことを意味します。
幕末の志士たちは、知を行動に移したのですね。
思想は簡単に時代を越える。
中江藤樹の学問が、後の多くの人々に影響を与えています。このような人を、同じ時代の人々と一緒に学びあえる。
本当に嬉しく充実した一日でした。