『ライフ・イズ・ビューティフル』
1997年イタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を観た。
たまたま21時前にテレビをつけ、何か良い番組がないかと番組表を確認すると、この映画がふと目に留まった。
時は第二次世界大戦下。ユダヤ人迫害により収容所に連行されたユダヤ系イタリア人親子の物語だ。
と書くと、かなり辛い悲惨な物語といった印象を与えるが、そうではない。ユーモアを存分に備えた笑いがそこに表現されているのだ。
戦争という悲惨な歴史に、不釣り合いなコメディを表現することで、どんな状況においても希望を失わないとする『光』を感じる映画だ。
この映画は、前半と後半で全く違ったものになる。
前半では、主人公であるグイドという青年が、友人と共に叔父さんを頼りに北イタリアの田舎町にやってくるところから始まる。
その町で、将来の妻となるドーラに出会い一目惚れ。奇跡的にも二人は結婚し、子供をもうける。
なんといってもコメディ色が強く、安心して笑えてしまう。
しかし後半は戦争一色に塗り替えられる。強制収容所では、やはり緊張感がある。過酷な労働を強いたげられ、まともな食事も与えられない描写は、やはり観ていて辛い。
しかし、そこでもグイドは共に連行された息子や妻ドーラのために、命懸けのユーモアによって、希望を与え続けていく。
最後のシーンは、何とも言えない心に残るものがある。
映画を見終わった後、実際に強制収容され、奇跡の生還を果たしたオーストリアの精神科医であるヴィクトール・E・フランクルのこの言葉を思い出した。
「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」
どんな状況化であっても、人からどんな目にあわされても、どう振る舞うか、その態度だけは奪われない。なんと崇高な言葉なのであろうか。
コロナ禍にある現在、思うようにいかない瞬間、瞬間を、どのような態度で生きるのかは、自分が決められる。
グイドのように、ユーモアと希望を少しでも与えられるような生き方をよう。この映画からそんなメッセージを受け取った。
映画観賞日誌
2021年2月1日