我々は与えられすぎている
先日、師匠との勉強会で、師匠がこんな言葉を言われました。
【我々は与えられすぎている】
師匠ご自身の人生を振り返ったとき、結婚もできて子供に恵まれ、その子供たちが大学にも行きながら、なんとか生活もできていることは、自分の能力からすると、出来すぎていると思ったそうです。
それは、ご先祖さんであったり、生きあっている方々に支えられている点がおおいにあり、これは、与えられすぎていることに着眼されました。
今の状態では、与えられているものが多く、自分の存在がふわぁ~っと浮いていようで、シーソーなら非常に傾いていると考えたのです。
それでは『存在が軽くなっている』と同じだ!と話されていました。
だから、人様に与えることをする。毎日コツコツと徳を積むことにより、与えられたものと、自分がお役だちすることのバランスがようやくとれ、シーソーは真っ直ぐになっついく。
これこそ、与えられていることと、与えることのバランスがとれ、中庸を保てる姿なのですね。
与えられているものに気づいたとき、愚痴は消えますし、全然自分が甘んじている存在であることに気づきます。
この考え方には、私も大きな気付きを頂きました。
与えられすぎている。
これは忘れてはいけません。