第7回いのちのセミナー その①
本日、第7回目のいのちのセミナーに参加いたしました。
今回の講師は、福井県霊泉寺の住職であり、青森県恐山菩提寺の院代を務める、南 直哉氏でありました。
日頃から沢山の人の話を聞き、説法をされているからでしょう、話がとても上手で面白く、まるで落語を聞いているようなリズムが心地よいものでした。
さて、様々感銘を受けましたので、2回に分けてブログに書き残そうと思います。
大きく感動した話のひとつに、東日本大震災のこたがありました。
あの3月11日をさかいに、日本人の生死の意識が大きく変わったのではないかとおっしゃられていました。
その変化とは、『明日は我が身』だという自覚です。
本来は関西に住む人からすると他人事といってもおかしくありません。
でも、我々はあの大地震で起きたことを、映像で見たのです。
そして、我々は元々、震災を体験された方々と同じように似たようなことを知っている。
被災しようとしまいと知っていることがある。
それは、もっともっも意識のより深いところにある事で繋がっている共通の問いがあるのです。それは、
『我々はなぜ生まれてきたかわからない。』ということなのです。
生まれてきた意味など全ては後付け。
事実はただ、お腹の中からぼろっと出てきたことだけ。その時点では、意味も目的も価値もわかりません。
そして、死とはなにか?など、絶対わからない。それは、この世で生きている人の中に、今だかつて死を経験した人がいないのだから
生まれてきた理由もわからない。
死ぬということもわからない。
最初と最後がわからないのに、真ん中(生きていること)なんて解るわけがない。
確かにその通りです。
ただ、それがなんとかなる。分かるようになる救いがあるといいます。
実は、出てきた瞬間に、よくぞ出て来てくれましたと受け止めてくれる手があるということです。
これが親であり、役目なのです。
しらないと言われたら、即アウト。
受け止めてくれるというのは大ラッキーであるのです。これを赤ん坊は本能的にわかってるんじゃないか?と持論を展開しておりました。
あなたはそこに、そうやって居てくれるだけで嬉しいんだって、誰かが言わなければわかりません。
自分の命の価値や意味は、誰かを通じてしか出来ない。わからない。
自分の名前は自分で決めない。
そう、全部他人から自分は作られるのです。人はお仕着せからはじまる。
お仕着せた人が、あなたはそこに居てくれるだけで私は嬉しいと言ってもらえない限りは、金輪際、自分の命の尊さありがたさ、意味や価値はわかりません。
それを言う人が親。それを言えなければ親になっちゃだめだと言われていました。
命一杯、その存在に感謝することで、感謝される側が自分の価値に気づいていく。
それが魂となる。魂は、大切な人が育ててくれるものだということを知り、また改めて、自分にない考えや思いに注ぎ込まれる養分となったように思います。
親の立場としては、まず子供たちの存在に、心から有難うと発していくことを、着手点としたいと思います。