dantelのブログ

日々の心境、思想、学び、気づき等を書き留めています。いつか、後世への遺物となることを願っています。

『1945年6月7日・大阪』

本日、大正区コミュニティセンターで行われた『原爆と戦争展』に参加させて頂きました。

私もご縁があって地元開催に継ぎ、2回目の参加となりましたが、主催されている皆さんの尽力には頭が下がる思いです。

本日も、沖縄戦や原爆に関する何十枚というパネル写真、文章を中心に用意され、14時からは実際戦争を体験された方々のお話を伺う機会も頂きました。

とくに印象に残ったお話は、東浦さん89歳による、大阪の城北公園での機銃射撃による大量殺戮であります。

1945年6月7日。当時16歳だった東浦さんの体験は壮絶なものでした。

この日、大阪で3度目の大きな空襲がありました。409機の大型爆撃機B29と、138機の護衛戦闘機P51の大群が大阪市上空に現れます。

P51の役目は、B29を攻撃する日本の零戦紫電改を迎え撃ち、撃退するものでした。

しかし敗戦末期の日本には、特攻機以外飛ばせる航空兵力はありません。

手持ちぶさたになったP51の操縦士たちに下った命令は、なんと自由行動でした。

その頃、現在の都島にある『ベルファ』という商業施設に、カネボウの繊維工場がありました。

そこは軍服などの製造のため、四国から集められたたくさんの女学生たちが働いていました。

空襲警報がなり、女学生たちは近くにある城北公園へ集団で避難します。

そこへ、『自由行動』していいと言われたP51の大群が城北公園に現れ、避難していた女学生たちを無差別に機銃掃射を執拗に繰り返したのです。

東浦さんは自宅に焼夷弾が落ちたため、砂をかけ、防火活動をしていたそうですが、みるみるうちに辺りは火が燃え移っていた為、城北公園まで避難しました。

そして城北公園で見た光景は、機銃掃射により倒れ込んだおびただしい数の死体だったのです。

公園の木々には飛び散った肉片が無数にへばり付き、無残な光景であったといいます。

そして1t爆弾が投下される中、目と耳を押さえて地べたに這いつくばり、なんとか逃れ、そして城北公園を出るときは死体を跨いで行かれたそうです。

この事は、後にずっとトラウマになったといいます。

このP51による無差別攻撃で、なんと1,000人以上もの罪のない人々が亡くなられたそうです。

戦争が終わり、東浦さんのお父さんが自宅の庭にあった石に、『千人塚』と掘り、公園の北を流れる淀川の堤防に小さな社と共に置かれました。

f:id:dantel:20180617232835j:plain

東浦さんはお父さんがはじめられた慰霊法要を受け継ぎ、今も毎年開催されているようです。

戦争が生んだ悲劇。
これを決して忘れず、我々世代が受け継ぎ、後世へ残さなければならないと強く思います。