dantelのブログ

日々の心境、思想、学び、気づき等を書き留めています。いつか、後世への遺物となることを願っています。

鶉野飛行場跡

昨日、兵庫県加西市にある、加西・鶉野飛行場跡(旧 姫路海軍航空隊基地)に、7人のメンバーで行って参りました。


台風18号が接近中の中、朝までどうなるか
わかりませんでしたが、なんとか雨も降らず、
時々太陽の光りも射し込むような天気になり、
参加者の私たちにとっては非常に有難い
天気になりました。

鶉野飛行場につくと、コンクリートが所々削られて
いて、周囲には雑草がたくさん生えていました。

当日のまま残されたものが、無機質に広がっているようで、何か寂しさも感じた次第です。

太平洋戦争時には、滑走路が3本あったそうです。

他2本は土であったため、戦後はすぐに田畑などになりましたが、中央の滑走路はコンクリートなので、整備出来ずそのまま残ったそうです。

現在飛行場跡の周りには、工場や田畑、溜め池や
民家などがありますが、当時は川西航空機工場
などがあり、紫電紫電改という戦闘機が、
合計500機程の組立てられていました。

戦局悪化の中、急遽作られた鶉野飛行場は、
姫路航空隊の基地とされました。

姫空の若者たちが、練習用として滑走路を使用。
しかし、神風特別攻撃隊が日本に編成されると、
ここからも63名の若者が、特攻隊として
飛んでいったのです。


周囲には米軍機を攻撃する機銃座、弾薬庫、
防空壕などが至るところにありました。

兵庫県の内陸部まで米軍機が入り込んで
来ていたことがわかります。

防空壕の中にも入れますが、中は真っ暗で
コウモリやカマドウマが壁にへばりついて
住みかにしていました。

当時、空襲警報がなると、飛行場の兵士や
民間人がこの防空壕に入り、
爆弾を避けていたのです。


戦争の跡がほぼそのまま残り、その場所を
少しでも触れることが出来た事は、
私にとって貴重な体験でした。

ボランティアガイドの方も、小学校1年生で
空襲を経験された、現在78歳の方でした。

78歳というお歳を感じさせない、
元気で方で素敵な方した。

戦後72年という月日が経ちましたが、太平洋戦争がいつはじまったのか、終戦日はいつか、
そんなことすら知らない日本人がたくさんいます。

私たちは日本人として、あの戦争をただの歴史の
1つにしてはいけません。

忘れてはいけない事実です。

その事を、次の世代にも伝えていくことが、
私たちの責任であると思います。

そのためにも、しっかり学んで感じて、
そして考えていきたいと思います。

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