正義感という違和感
日本の、ある消防士のドキュメント番組を見ていました。
2001年に起きた同時多発テロ。その現場であるグランドゼロに、外国人として初めて立った日本人消防士の物語です。
事のはじめは、テロが起こる3ヶ月前になります。ニューヨークで世界70国から集まった消防士さんたちの、オリンピックともいえる大会がありました。
そこで日本人消防士さんが見事優勝されました。その夜はアメリカの消防士チームと健闘を称えあえ、共にお酒を交わしたそうです。
また会おう!そう約束した矢先、あのテロ事件が起こります。
大会に出場した、日本人消防士の一人が、共にお酒を交わしたアメリカの消防士に安否のメールをします。
11日経ってようやく返事がありました。その内容は、『助けてほしい』でした。
メールを読んだその消防士さんは、なんと休暇を取り、共に大会に出場した仲間たちと、ニューヨークへ向かうのです。
それは、誰にも止められない正義感が動かしたものでした。
ここで私は、この正義感というものに違和感を感じました。
たった一度、大会で競いあった、それも異国の同士のために、現地に行くという判断をした、その正義感にです。
確かに助けてあげたい。そんな思いは、私にも沸いてくるはずです。
しかし、これは公務ではなく、自主的な判断です。
もし、正義感というものを冷静に考えた時、一番守るべきものは何でしょうか。
私は家族を守りたいと思います。
テロ事件が起こったニューヨークで、すぐさま次のテロが起こるかもわかりません。危険度は最高潮にある場所です。
もしもの事があった時、一番大切である家族を置き去りにしてしまうことが、果たしてその決断は正義でしょうか。
日本で大火災が起こった場合、本来居るべき方がいらっしゃらなければ、どうなるのでしょうか。
この方々の行動力、正義感は凄まじい力がある半面、本来居るべき場所、選ぶべき正義はそこではないように思いました。
感動的な物語ではありますが、正義感というものに違和感を覚えた時間でした。
人は感情で動く生き物。
だから、感動と書きます。
私は非常に冷血だと思われるかもしれませんが、感情の主体を、本当に大切なものに使いたいと思いました。
消防士でもない私が、偉そうに書きましたが、
自分の意思を確認する意味でも、
書い留めてみました。