地震
地震が来たとき、都会にいればいるほど普段当たり前のように便利なものが、とても不便になってしまうことが良く分かります。
今日、17階のオフィスに着いたとたん、ドンっとなにかビルにぶつかるような衝撃があり、そのまま大きく揺れました。
ただ、机などにつかまって立っているのが精一杯で、揺れが早く沈むことと、家族は大丈夫か?と思うだけでありました。
エレベーターが止まり、17階へ登るも降るも階段を使わなければなりません。
梅田にある、アパレルや飲食など様々な店舗は地震により閉店。コンビニの水や食料はすべて品切れといった状態です。
電車がとまり、中で閉じ込められたまま2時間の人、線路を歩く人々・・・。
私の会社では、昼食として災害用に保管していた非常食が配られました。
リスクを一番学べるのは、リスクが来たときだと改めて考えさせられます。
普段からよっぽど考えていないと、いざというときは大変です。
リスクが来た今こと、様々な様子をメモし、緊急時に役立てるべきだと切に思います。
『1945年6月7日・大阪』
本日、大正区コミュニティセンターで行われた『原爆と戦争展』に参加させて頂きました。
私もご縁があって地元開催に継ぎ、2回目の参加となりましたが、主催されている皆さんの尽力には頭が下がる思いです。
本日も、沖縄戦や原爆に関する何十枚というパネル写真、文章を中心に用意され、14時からは実際戦争を体験された方々のお話を伺う機会も頂きました。
とくに印象に残ったお話は、東浦さん89歳による、大阪の城北公園での機銃射撃による大量殺戮であります。
1945年6月7日。当時16歳だった東浦さんの体験は壮絶なものでした。
この日、大阪で3度目の大きな空襲がありました。409機の大型爆撃機B29と、138機の護衛戦闘機P51の大群が大阪市上空に現れます。
P51の役目は、B29を攻撃する日本の零戦や紫電改を迎え撃ち、撃退するものでした。
しかし敗戦末期の日本には、特攻機以外飛ばせる航空兵力はありません。
手持ちぶさたになったP51の操縦士たちに下った命令は、なんと自由行動でした。
その頃、現在の都島にある『ベルファ』という商業施設に、カネボウの繊維工場がありました。
そこは軍服などの製造のため、四国から集められたたくさんの女学生たちが働いていました。
空襲警報がなり、女学生たちは近くにある城北公園へ集団で避難します。
そこへ、『自由行動』していいと言われたP51の大群が城北公園に現れ、避難していた女学生たちを無差別に機銃掃射を執拗に繰り返したのです。
東浦さんは自宅に焼夷弾が落ちたため、砂をかけ、防火活動をしていたそうですが、みるみるうちに辺りは火が燃え移っていた為、城北公園まで避難しました。
そして城北公園で見た光景は、機銃掃射により倒れ込んだおびただしい数の死体だったのです。
公園の木々には飛び散った肉片が無数にへばり付き、無残な光景であったといいます。
そして1t爆弾が投下される中、目と耳を押さえて地べたに這いつくばり、なんとか逃れ、そして城北公園を出るときは死体を跨いで行かれたそうです。
この事は、後にずっとトラウマになったといいます。
このP51による無差別攻撃で、なんと1,000人以上もの罪のない人々が亡くなられたそうです。
戦争が終わり、東浦さんのお父さんが自宅の庭にあった石に、『千人塚』と掘り、公園の北を流れる淀川の堤防に小さな社と共に置かれました。
東浦さんはお父さんがはじめられた慰霊法要を受け継ぎ、今も毎年開催されているようです。
戦争が生んだ悲劇。
これを決して忘れず、我々世代が受け継ぎ、後世へ残さなければならないと強く思います。
氣心
6月9日、10日と2日間、福岡にいる友人に会いに行ってきました。
その友人は高校の同級生であり、同じ陸上部に所属していました。
彼が仕事で地元大阪を離れ福岡で暮らすこと13年。福岡でご縁をもらった女性と結婚し、子供二人にも恵まれ、幸せに暮らしていました。
そんな彼ですがここ数年は、あまり奥さんともうまくいかず、遂には離婚を選んだのです。
電話やメールで連絡はとっていましたが、当然元気も感じません。
私は、彼を元氣にする企画を立て、大阪の友人たちに連絡をしました。
すると今回、同じ陸上部だった4人と、そして1人は奥さんもついてきてくれ、合計5人で福岡に行くこととなったのです。
なるべく旅費を抑えるため、往復の新幹線は『こだま』を選び、その分福岡の友人との時間を充実させることを選んだのです。
往復10時間。これが不思議と長く感じない。友人たちといると、時間という概念がないくらい、本当にあっという間だから面白いものです。
そして久々の再会。これも不思議なことに久々という感覚がありません。
会った瞬間から、まるで1週間ぶりぐらいの感覚。
福岡の美味しい魚料理、お酒、そして中洲の屋台、ラーメン・・・。笑いあい語らいあい、久闊を叙する時間を味わいました。
2日目は福岡の友人が車を出してくれ、佐賀県との県境にある『白糸の滝』に連れて行ってくれました。
滝を味わいながら流しそうめんを楽しみ、なかなか大阪では味わえない体験をさせてくれました。
新幹線までの時間に、雑餉隈にある『藤木屋酒店』に参りました。
ここは、小学校からのファンであるCHAGE&ASKAのASKAさんに馴染みあるお店だと、ASKAさんのブログで知りました。
今回偶然にも、この5人中3人がファンだったので、ASKAさんが命名したこのお店にしかない焼酎、『氣心』を買って帰るだけの予定でした。
が、お店に入ると店のあちこちにASKAさんの写真が・・・。お店の方も我々がファンであることを伝えると大変喜んでくれて、色んな話をしてくださいました。
正直、こんなにASKAさんと近い存在だったとは思いもよらず、まるでASKAさんに会ったような喜びが心底沸いてきたのは、この3人の共通認識でありました。
このお酒の名前である『氣心』がぴったりだった福岡の2日間となりました。
福岡の友人を元氣づけられたかはわかりませんが、私は逆に元氣をたくさんもらったように思います。
いろんなことがあって人生が彩る。
彼の人生は、彩りに満ちた人生であってほしいと思います。
この2日間、友人皆と、そして文句1つ言わず送り出してくれた家族に感謝です。
次回は藤木屋酒店で『氣心』を飲み語らいあいあおう。
『諦める』と『受け入れる』
先週、ある私のお客さまが、こんなことをおっしゃられました。
『諦めると受け入れるの違いがよきわからない。私は子育てで失敗もたくさんしたけど、それは諦めていたのか受け入れてきたのか、どうなんでしょう。』と。
今までそんな事を思いもつかなかったので、
非常に衝撃的でした。
まず一緒に辞書で調べてみました。
辞書にはこうあります。
諦める・・・とても見込みがない、しかたがないと思い切る。断念する。
受け入れる・・・人の言うことや要求などを聞き入れる。
とすれば、自分自身のことであるのが諦めであり、他の力が働いた状態のことは受け入れるであろうか?とも思いました。
そして、その時例え話を用いて私なりに出た答えは以下の通りです。
ある人が万引きをして逃亡していた。しかし逃げ道を失って、警察からもう逃げられないと思ったことが『諦める』。
そして自分のした罪、それによって迷惑をかけたたくさんの人々に対し、罪を認め、償っていく決心が『受け入れる』。
そしてこの話を師匠に聞いてもらいましたら、師匠からは『諦める』という本当の意味を頂きました。
師匠は言います。
“あきらめる”は、“諦める”とも書きますが、
“明らめる”とも表現します。
つまり、物事の理(ことわり)が明らかになる、
という意味です。
具体的にやっている、あるいはやってみた、
すると具体的な結果が出ます。
すると、やってみたい、と思ってやったことの
意味付けが出来るわけです。
あくまでも具体的な行動と結果から明らかに
されることがある、ということです。
極めて主体的な思考活動といえます。
“諦める”を受け身に感じてしまうとき、主体性や親密性を欠いていることが多いかもしれません。
雑感でありますが・・・。
諦めるは物事を明らかにする(なる)。
そう考えれば、ただマイナスに働くだけではなく、主体性が生まれます。
日本語の面白ろさ、奥深さを感じました。
なにげに普段使う言葉を切り取ってみると、想像力を掻き立てるものが生まれるかもしれません。
非常に面白いテーマを頂きました。
トヨタ鞍ヶ池記念館
今日は愛知県で仕事をさせて頂きました。
仕事の合間に、豊田市にある
『トヨタ鞍ヶ池記念館』に行って参りました。
TOYOTAの前身、『織機』の発明に取り組んだ創業者である豊田佐吉翁と、『紡織機から自動車へ』継承・進化を遂げた息子の喜一郎の想いのたくさん詰まった、素晴らしい記念館でありました。
とくに、紡織機のパイオニアから時代をしっかり読み、戦前から『純国産車を作る』といった先見性やその情熱、またその想いに賛同した技術者たち。
いつの時代も、やはり『情熱の力』というものは果てしないものがあります。
日本を代表する会社にまで成長したTOYOTAの軌跡を感じることが出来ました。
記念館のすぐそばには、豊田佐吉翁の自宅がそのまま残されておりました。
中には入れませんでしたが、外観から非常にワクワクするものを感じました。
戦後GHQに没収されなかったのは、洋室に畳を敷いていたからだと逸話が残っているようですが、やはり世界のTOYOTAに発展しうる素質を見逃さなかったのではないかと思います。
鞍ヶ池記念館の周囲も緑豊かで、凄く気持ちの良いところでした。
素晴らしい記念館を、無料で解放してくれるTOYOTAの姿勢にも敬意をはらいます。
モリのいる場所
夫婦で映画『モリのいる場所』を観て参りました。
毎週水曜日はチケット代が1,100円となり、とてもお得な上、平日なので人が少なくとてもゆっくり観られることが嬉しい限りです。
この映画は実際にいた画家、熊谷守一さんの晩年の頃をモデルにした物語です。
熊谷守一さんは昭和52年7月、97歳で亡くなられましたが、晩年はご自宅の家、庭から約30年間ほとんど出ず、毎日庭に住む植物、蟻やカマキリ、蛙や猫などを観察し、夜中に絵を描くという人生であったといいます。
画家でありながらも欲がなく、名誉にも興味がないので清貧、生活は大変だったといいます。
しかし、その人間の常識的な日常生活にとらわれることなく、必要以上の繋がりや物を持ちたがらず、ゆっくりゆっくり生命を感じて生きる。実はそんな生き方こそが本当の意味での豊かさであるのではないかと、ハッとさせられました。
庭で寝転びながら、じっと蟻を観察している時、
熊谷家に来ていたカメラマンにこう言うのです。
『最近になって気づいたんだが、蟻は左の2番目の足から歩いてるね。』
それを聞いたカメラマンは、守一と同じ格好になり、蟻を観察するのですが、蟻の動きが早くてよく見えません。
そこで守一は何度もいいます。
『ゆっくり観て』と。
このシーンはとても印象深く、私の心に残りました。
スピードが要求されることが多い今の世の中で、ゆっくりと何かを観たり、ゆっくり物思いにふけったり、熟考したりすることがいかに価値があり、生命に深い豊かさと感動を与えてくれるものであるか、そこに気づかせて貰いました。
物の豊かさ、便利さも大切ですが、心の豊かさこそ本来生きる喜びである。
また私の人生の中で、養分となり生き方に影響を与えてもらいました。
大林監督とがん
前回の続きになりますが、いのちのセミナーより、大林宣彦監督からのメッセージで心に残ったことを書き残します。
大林監督は、2016年8月24日に末期の肺がんと診断され、余命3ヶ月と言い渡されました。それも、映画『花筐』の撮影に入る前日だったのです。
それから『がん』との共同生活が始まりました。
がんも一生懸命に生きている。
そう思うと自分はがんを住ませてやっている宿主、がんは住ませてもらっている宿子として考えるようになったのです。
大林監督はいつも、がんとこんな会話をするそうです。
『おい、がん君。君もしっかり生きていたいだろう?だったら宿主である俺をあんまり困らせちゃだめだよ。宿主の俺がしんじゃったら、君も死んじゃうんだから。』
だから余命3ヶ月と言われても、今もこうやって元気に暮らされているそうです。
そして同時に、
『まてよ。俺だって地球の宿子だ。我々人間はみんな地球の宿子。だったら宿主の地球を困らせることはしちゃならない。』
そんな風に、がんになる事80歳ではじめて気づかれたのです。
人間というものは、自分の命は大切にして、動物・植物などあらゆる生命も含めて他人の命は不幸にしてしまう。
自分の命も、蚊の命も、草の命も、地球からすればどれも大切な命です。
自分の命のように、あらゆるものを大切に思えたなら、世の中はもっと良くなっていくのでしょう。
大林監督の言葉には一つ一つ気付かさせられ、考えさせられるものがあります。
日本を代表する素晴らしい映画監督です。
いのちのセミナー
本日、JR西日本あんしん社会財団が主催する、『いのちのセミナー』に参加させて頂きました。
以前ブログでも紹介致しました、映画作家の
大林宣彦監督が講師だったこともあり、非常に楽しみにしておりました。
大林監督は、日中戦争の最中の1938年に広島県尾道でお生まれになり、少年時代は軍国少年として育ちました。『いつかはお国の為にご奉公するんだ』という強い思いを持っていましたが、敗戦を迎え、価値観も教育も180度変わり果てた世の中で、どう生きていけばいいのかわからなくなったそうです。
生きている人間が死んでいるように見え、逆に死者が生きているようにさえ感じたといいます。
そんな記憶が、これまでの人生の根底に流れ、ある意味では力となってきました。
あれだけ鬼畜米英、赤鬼だ青鬼だ!と教えたのは大人たちでしたが、敗戦後に大人たちは、平和になった!戦争しなくてよくなった!と手のひらを返したように代わってしまったのです。
そんな大人の姿を見て、大人への絶望感、つまりは未来への絶望を余儀なくされたといいます。
この時代に生きた方々、特に縁の深かった黒澤明監督、ミッキーカーチスさん、立川談志さんなど、みんなそのような思いをされていたそうです。
印象深い話がいくつもいくつもありましたが、その中で立川談志さんのエピソードは、私の心に強く強く刻まれるものがありました。
談志さんは寄席の最中、お客さんが一人でも寝ているのを見ると、落語を中止して舞台袖にはけていくことがあったのです。
自分の落語を聞かない無礼な奴だ!というような理由ではありません。
その理由とは、戦時中は夜寝る時間以外は絶対に寝てはいけなかったからなんです。寝ることを許されない国民学校で叩き込まれた精神が談志さんには根付いていたのです。
そして、自分が起きている間はあの戦争で亡くなっていった人達の分まで、この命を大切に使うんだと決め、命がけで落語をしているからなのです。
そんな思いを持ち、命を使っている相手に対して寝ている人間がいると、そんな人間に話などしたくないと思うようになった。
これはやはり、あの時代を生きた人の感覚なんだと言われていました。
敗戦少年という言葉で表現されていましたが、そんな経験をされ、わずか小学生ぐらいの年齢から生きる希望までを見失ってきた方々の想いを聞き、とても考えさせられるものがありました。
大林監督は、2016年8月24日に肺がんが見つかり、余命3ヶ月を宣告されています。
それでもいいます。戦争で死ねなかった人間がガンごときでは死ねないと。
あと30年映画をとると言われていました。
本当にそのよいな監督の姿を見ていけたらと思いました。
素晴らしい講演、心から感謝致します。
5月12日
5月12日、先祖への墓参りに家族で行って参りました。
いつも御供えの花を買うのですが、その花の中に、赤いカーネーションが入っておりました。
母の日にちなんで選んでくれたのでしょう。
お墓には祖母と母が入っています。生前には、母の日にカーネーションなど渡したこともなかったのですが、今となってですが少しでも喜んで貰えてたら佳いものです。
ちなみに妻には、今年は紫陽花をプレゼントしました。
私が紫陽花を年々好きになっていき、どうしてもベランダで育てていきたいという気持ちが強くなったことが大きな理由ではありますが・・。
その日の夜には、小・中・高と同じ学校の同級生の結婚サプライズパーティーに参加させてもらいました。
なんと23年間お付き合いし、結婚に至ったのです。
夫婦の数だけ物語がある。
本当に幸せになってもらいたいものです。
我が家も家族四人、健康には一番留意して、出来るだけ、げんきよくきげんよく日々を暮らしていきたいと思います。